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高校野球

シリーズ・黄金時代① 大阪桐蔭
王者が冬の時代を乗り越えた時【1】

高校野球には、時代、時代によって圧倒的強さを誇ったチームが存在する。1980年代のPL学園から、90年代前半の帝京、世紀をまたぐ時期の智弁和歌山。そして現在の大阪桐蔭。そんな「黄金時代」を築いたチームの様子を、当時の選手、関係者に振り返ってもらう「シリーズ・黄金時代」。
 第1回は、この夏、2度目の春夏連覇に挑む大阪桐蔭。甲子園初出場初優勝の快挙から、長く甲子園に手が届かなかった時代を経ての復活。その「再起」のターニングポイントである2002年夏の甲子園。チームはいかに黄金時代の扉を開いたのか。

100年に迫る甲子園大会の歴史にあって、いまだ成されたことのない同一校による2度の春夏連覇。今回、この偉業へ挑むのが大阪桐蔭だ。あらためて振り返れば、野球部の歴史は浅く、創部からまだ31年目。全国舞台への初登場は4年目にかかる1991年春。ここで選抜ベスト8に入ると連続出場の夏に猛打を奮い一気に全国の頂点に立った。しかし、2度目の甲子園までには11年を要し、2002年夏。当時コーチだった西谷浩一現監督は「あそこで重い扉を開けてくれたから今がある」と事あるごとに当時の選手らの頑張りを口にするが、大阪桐蔭野球部の歴史の中間点とも言える02年夏の甲子園はまさにチームにとってのターニングポイントだったのだろう。以降15年の間で激戦の大阪からこの夏も含めると16度の甲子園出場で実に6度の日本一。高校球界をリードする強豪へと突き抜けた。

今とは違うチームの雰囲気
流れを変えた監督交代

 15年前の甲子園に3番ショートで出場した岩下知永は在籍当時の空気をこう振り返る。
「91年の甲子園から間が空いていたということですが、やっている者とすれば、もうちょっとで甲子園に届く、という感覚でした。ただ、あれだけ力があった上の代でもいけなくて、僕らの代になったら戦力は完全に落ちる。その面で厳しいなというのはありました」
“上の代”とは岩下の1年上、中村剛也(西武)、岩田稔(阪神)らの学年を指している。この学年は個々の能力の高さに加え、当時を知る者たちが「とにかく練習をよくやった」と口を揃えるチーム。そこに2年の西岡剛(阪神)、岩下らも加わり、戦力は揃っていた。しかし、年明けにエース岩田が1型糖尿病を患い投手力が大きく戦力ダウン。圧倒的な打力で大阪大会決勝まで勝ち上がるも最後は激闘の末、上宮太子に敗れ甲子園には届かなかった。
 西岡、岩下を軸に立ち上がった新チームでは、秋に敗れると、98年から指揮を執っていた西谷から前監督の長澤和雄へ交代の動きがあった。ここから西谷はコーチとして現部長の有友茂史とチームを支え、その体制で開いた重い扉でもあった。再び岩下の回想だ。
「僕らの代はちょっとヤンチャというか、ツッパっている感じのヤツらもいて、しんどい練習はイヤやな、という雰囲気があった。そこへ監督が代わって、正直、練習が少し楽になったのもちょうどよかったのかも…」
 長澤は91年初出場、初優勝時の監督だが、岩下の話に当時の主将・玉山雅一から以前聞いた話を思い出した。
「僕らの時のチームは縛りつけようとしたらほどきに来るヤツばっかり。だから放牧して、試合になったらいいところだけ引き出してやるのが正解。そう思うと、決して押しつけず、大らかに育ててくれた長澤監督だったからこそあの結果があったんだと思います」
 そんな先輩たちの話を伝えると「僕らもそのパターンだったんですかね」と言った岩下は、さらに当時の空気を伝えてきた。
「西岡とは二遊間を組んでいましたけど、ほとんど口を利かなかった。(相手が盗塁を仕掛けてきた時に)どっちがベースに入るという打ち合わせもなし。プロに行くくらいのヤツなので向こうもクセがあったし、こっちもツッパっていて。チームでやることはどっちもやっていましたけど個人となるとバチバチでした」
 念のため、今の2人の関係は良好だが、主将と副主将、打線では3番と4番、守りでは二週間。それでいて“この感じ”だった。近年の大阪桐蔭は主将の元に各選手が一丸となっての強さが印象的だが、今とはずいぶん空気が違っていたようだ。

取材・文/谷上史朗 編集/田澤健一郎

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