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高校野球

シリーズ・黄金時代② 帝京 激しすぎたチーム内での戦い【1】

 高校球界において「黄金時代」を築いたチームを、当時の選手、関係者に振り返ってもらう「シリーズ・黄金時代」。
 第2回は、1989年夏優勝、92年春優勝、95年夏優勝と80年代末から90年代前半に短いスパンで甲子園を制覇し、上位進出を繰り返していた帝京(東京)。闘将・前田三夫監督に率いられ、その真骨頂ともいうべき、信じられない形で頂点に登りつめた1995年の夏の甲子園優勝を、当時の3年生に語ってもらった。

1995年夏における帝京の甲子園優勝の何が異例だったのか。それはチーム構成だ。当時のベンチ入りメンバー16人のうち3年生はわずか4人で、残り12人はすべて2年生。それだけならない話ではない。ただ、この年、春夏連続甲子園出場だった帝京は、選抜で2番、3番、5番を打っていた主力の3年生が、夏はレギュラーどころかベンチを外れていたのである。それもケガなどではなく、練習の方針などを巡って監督とぶつかり、チームを離れるという形で。
 春、甲子園に出場したチームの2番、3番、5番打者が抜けた状態で夏に臨む。普通に考えれば甲子園出場すら雲行きは怪しくなる。だが、帝京は甲子園に出るどころか優勝してしまった。2度の甲子園制覇から間もない時期ゆえに、選手層は厚かったであろう。だが、だからといって勝てるほど簡単ではないのが甲子園、高校野球。いったい、この帝京の強さの秘密は何だったのか。

練習ボイコットと春の敗戦
「鍛え直す」猛練習が始まる

「入部当時40人くらいいた同級生のうち、最後まで残ったのはベンチ入りした僕ら3人と(吉野)直樹、あとは打撃投手をやってくれた投手とマネジャーの5人だけでした」
 そう当時を振り返るのは、主将のチーム離脱により6月から新たに主将となったセカンドの田村渉である。取材に集まってくれたのは、田村のほか「僕ら3人」の残り2人、エースナンバーをつけつつも、夏は主に5番打者として活躍した本家穣太郎、6番を打っていたサードの西村吉弘だ。
「練習量がすごかったんですよ。特に選抜で負けてから。絶対日本一だろ、と思っていました」(西村)

「後に監督にきいたら、僕たちが選抜に出たことで、とにかく調子に乗っていたと。それで鍛え直そうと思ったらしいです」(田村)

「6月くらいからは練習が終わって学校を出るのはもう11時過ぎるレベル。私は家が学校から近かったからよかったけど、田村や西村は練習が終わると終電に間に合わないって、ダッシュで帰っていました。今、思えばひたすらノックを打ち続けて、いつも練習の最後までいた監督もすごいけど」(本家)

 この猛練習に部則を破ったことなどが加わりレギュラーや練習から外された3年生が「ついていけない」「やってられない」と次々、チームを離れていったという。それにしても3年の6月である。あと少し我慢すれば、とも思うのだが。
「伏線があったんです。前年の秋、都大会で準優勝した後に『休みがほしい』と同級生全員で監督に申し出て、練習をボイコットしたんですよ」(田村)

「『もう少し遊びたい』と思っていたような選手が先頭に立ってね」(西村)

「そしたら2年生(当時)全員が練習から外されてしまった」(田村)

 選手としては準優勝とはいえ、当時の選考では選抜出場はほぼ確定。「だったら、これくらい」という軽い気持ちだったのかもしれない。だが、後の話によると前田監督は「決勝で負けたのに悔しくないのか?」とショックを受けたという。
 このボイコット事件は、時間を経て少しずつ2年生が練習に戻されていくことで自然解決。結果的に選抜も秋のメンバーで出場となった。しかし、初戦で伊都(和歌山)に敗戦。
「監督としては『それ見たことか』という感じだったんじゃないかなあ」(西村)

 こうして前述した猛練習に入っていったのだった。

主将も含めたレギュラーの離脱で、6月から急遽、主将を務めた田村。「最後は3年生が6人しかいない状態だったから、上下関係はなくなったも同然でしたね」と笑う。

シリーズ・黄金時代② 帝京 激しすぎたチーム内での戦い【2】に続く

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