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高校野球

【父の背中を追って】馬渕歩空(帝京大可児)高校野球を通じ、父への意識に変化

★一軍とは無縁だった父のプロ生活

 父・馬渕隆雄は1996年秋、西武からドラフト5位指名を受けた。愛知大学リーグの同朋大で投手として活躍。4年先輩の豊田清(現巨人コーチ)に次ぎ、同朋大から2人目のプロ入りを果たした。
 同期入団に和田一浩(現野球解説者)や森慎二(元西武コーチ・故人)がいる。西武は当時、松井稼頭央(現楽天)らが頭角を現した時期で、翌年から2年連続でパ・リーグを制した。20年以上たった今でも、かつての同僚とは交流がある。

 隆雄は一軍登板とは無縁だった。3年間のプロ生活を「後悔しかない」と振り返る。プロ入り前は、「『将来プロになりたい』というより『自分はプロになるんだろうな』という感覚だった」。だから気持ちに火がつくのも遅かった。
「プロ1年目の春季キャンプでは、コーチから『最初の紅白戦で投げてみるか?』と聞かれたけど、『まだ(状態が)できていないので、やめておきます』と断った。でも結局今、自分の成績で『一軍登板なし』と書かれているのを見ると、チャンスをもらえたときにいっておくべきだったし、大学時代にもっとやっておけばよかった」

 入団3年目の6月に、長男の歩空(ほだか)が生まれた。その年の秋に戦力外になり、軟式野球部のある運送会社に就職。仕事には熱心に取り組んだが、野球界の第一線からは離れた。

 息子・歩空も父と同じく野球の道へ進んだ。ポジションも父と同じ投手。だが、順風満帆ではない。中学時代もエースではなかった。隆雄は「彼は体は大きいけど、そんなに野球が上手じゃなかった。それでも『親が元プロ』として見られる。つらい部分はあったと思う」と推しはかる。

 歩空が中学時代に所属した硬式クラブチームでは、関係者に請われ隆雄も指導スタッフに加わっていた。それが歩空にとって、複雑でもあった。
「父には怒られることばかりで、中学時代は歯向かっていた。自分の野球のレベルが低いのは分かっていた。たとえば打席で変化球狙いの指示が出ていても、そんな簡単なこともできない。ただそれを父から言われるのが嫌だった。自分の息子に厳しいのは当たり前だと、頭では分かっていても…」
 練習帰りの車中ではよく言い合いになった。


1997年から3年間、西武に在籍した馬渕隆雄。現在は母校の同朋大で監督を務めている(写真提供:Ken Umemoto)


★親元を離れての成長と次なる夢

 高校では親元を離れ、帝京大可児(岐阜)へ進んだ。自身が高校時代を寮で過ごした経験から、隆雄は寮生活を常々息子に勧めていた。今、息子の成長が少しずつ分かる。
「こちらからは口出ししないけど、時々電話がくる。彼の中でいろいろ考え、『こう思うんだけど、親父はどう思う?』と意見や探究心をもてるようになった」
 父と同時期にプロでプレーしていた田中祐貴コーチ(現役時の登録名は「ユウキ」/元オリックスほか)らの指導のもと、父がアマ時代に気づけなかった部分を、186センチの大型右腕は気づきはじめている。

 最後の夏、歩空は背番号11をつける。昨夏に次ぐベンチ入りだ。隆雄は「チームにはいろいろな役割がある。声を出したり、部員をまとめたり。その辺りは昨年からよくやっていたようだ。試合では、マウンドに立った投手がエースだと思って投げてほしい」と送り出す。
「欲を言えば、自分が失敗した分成功してほしいけど、本音は、野球をやってくれてありがとうという気持ち」

 隆雄は4年前の春から、アマ球界の現場に本格復帰している。母校の同朋大で野球部の監督になった。「いつかはプロで通用する選手を」。今春リーグ戦ではⅡ部の優勝争いに絡むなど、チームは右肩上がりだ。

 歩空は、高校卒業後も大学で野球を続けるつもりだ。
「同朋大が第一志望。父のもとで野球をやってみたい。もともと野球を始めた頃は、友達に『お前のお父さんプロだったんだな』って言われて自慢の父だった。中学時代は素直にアドバイスを聞けなかったけど、今だったらどんな形になるのか、楽しみなんです」
 父子のストーリーには、まだまだ続きがありそうだ。

実力校で投手陣の一角を担う馬渕歩空(ほだか/岐阜・帝京大可児高3年)。身長186センチで潜在能力は十分だ。


(取材・文/尾関雄一朗)

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