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野球人生変えた「怪物」への憧れ 中日ドラ1右腕が横浜高を選んだ理由


明大からドラフト1位で中日に入団した柳裕也投手。宮崎・都城市から神奈川の横浜高に進学した高校時代は、春夏合わせて甲子園に3度出場。明大ではエース兼主将として4年時に春秋リーグ連覇に貢献。明治神宮大会では日本一に輝いた。ドラフトではDeNAとの2球団競合の末、中日が交渉権を獲得。アマ球界の名門校を進み、新人王候補の呼び声も高いルーキーが、これまでの野球人生を振り返った。

■15歳の少年が自ら直訴「横浜高校に入りたい」

 明大からドラフト1位で中日に入団した柳裕也投手。宮崎・都城市から神奈川の横浜高に進学した高校時代は、春夏合わせて甲子園に3度出場。明大ではエース兼主将として4年時に春秋リーグ連覇に貢献。明治神宮大会では日本一に輝いた。ドラフトではDeNAとの2球団競合の末、中日が交渉権を獲得。アマ球界の名門校を進み、新人王候補の呼び声も高いルーキーが、これまでの野球人生を振り返った。

 野球を始めたのは小学3年の時だった。所属していた宮崎・都城市の志比田スポーツ少年団で小学6年の時に軟式の全国大会で優勝。中学で硬式に転向し、都城シニアでプレー。高校は、幼い頃から憧れていた横浜高に進学する。きっかけとなったのは、98年に甲子園連覇を達成した「怪物」の存在だ。

「子供の時に見た松坂大輔さん(現ソフトバンク)に憧れて『横浜のユニフォームを着たい』とずっと思っていました。松坂さん、涌井(秀章)さん(現ロッテ)など、すごいピッチャーの方が出られているので、横浜に行きたいと思っていました」

 所属するシニアチームの監督が、高校野球の関係者を通じ、招待試合で宮崎に来ていた当時の横浜高・渡辺元智監督(現終身名誉監督)、小倉清一郎コーチに会わせてくれた。

「渡辺監督、小倉コーチは自分の野球を見たことがなかったので、横浜まで行き、自分の野球を見てもらって、入部させてもらいました」

「横浜高校へ入りたい」という熱い思いを、15歳の少年が自ら直訴した。その思いが通じ、故郷・宮崎から遠く離れた甲子園春夏5度優勝の名門野球部に入部する。

「今考えると、すごいことしたよなぁ……って思います」と笑うが、その行動が、後の野球人生を築く礎となった。

■甲子園3季連続出場、地獄の猛練習「どう乗り切ったか覚えてない」

 今まで野球を辞めようと思ったことは「一度もない」。しかし、横浜高の練習は本当にきつかったと、当時を振り返る。

「全部きつかったです。また明日もあの練習をやるのかと思うと、本当に辛かった。どうやって乗り切ったかも覚えてないんですよ。必死で、夢中にやっていたんだと思います」

 2年の春夏、3年の春の選抜と甲子園に3季連続で出場。だが、最後の夏は当時2年のエース・松井裕樹(現楽天)を擁する桐光学園に神奈川大会準々決勝で敗れ、聖地の土は踏めなかった。

 高校から直接、プロ入りした松井に対しては「活躍していてすごいな、頑張っていてすごいな、と思っていました。特にライバル意識はありません」と冷静に話す。自身は、高校卒業時点での実力ではプロで通用しないと悟っていた。

「高校3年の自分の力じゃ、プロでは活躍できないことはわかっていました。球威、コントロール、全部ダメです。大学に行って鍛え直し、4年後、プロを目指そうと思っていました」

 4年後のプロ入りを期し、通算117勝の中日・川上憲伸、昨季最多勝の広島・野村祐輔ら多くのプロ野球選手を輩出し、日大三で甲子園Vメンバーだった高山俊(現阪神)ら好選手が在籍していた東京六大学の名門・明大に進学する。

「やるからには一番レベルが高いところでやろうと思っていました。明治の環境、伝統、そういうものに惹かれました」

■日本一&世界一果たした大学生活、最後に流した涙のワケは…

 明大では1年春からリーグ戦に出場し、2年秋から主力として活躍。3年夏にはユニバーシアード日本代表に選ばれ、世界一を達成した。4年時は人格を買われ、明大の投手としては川上憲伸以来19年ぶりのキャプテンに任命された。

 春は6勝を挙げ、3季ぶりのリーグ優勝に導くと、日米大学選手権では日本代表エースとして連覇に貢献。MVPと最優秀投手賞を獲得した。秋も5勝を挙げ、春秋連覇を達成。明治神宮大会で有終の美を飾った。通算23勝したリーグ戦で奪った三振は歴代8位の338。エース、キャプテンとしてチームを牽引し、大学4年間で目覚ましい成長を見せた。

 大学最後の大会となった明治神宮大会、決勝で桜美林大に勝利。5年ぶりの優勝を決めた後、歓喜の輪の中で人目もはばからず涙した。キャプテンとして、常にチームのことを考えていた。誰よりもチームを思うその信念が、実を結んだ瞬間だった。

 しかし、流した涙は歓喜の涙ではなかった。

「あれは、うれし泣きじゃなくて悲しい涙です。このチームで野球をすることはもうないんだと思うと、悲しくて。キャプテンを任されていたこともあり、チームに対する思い入れも強かったですし、本当にいいチームでした」

 野球を始めた小学生から今まで、チームメート、先輩、後輩、指導者に恵まれ、いい野球人生を辿って来られたと話す。感謝の気持ちを忘れない右腕は、プロでの勝利を積み重ねることで、恩を返していくつもりだ。

篠崎有理枝●文 text by Yurie Shinozaki

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