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高校野球

爽やかだった初出場・折尾愛真 日大三に大敗を喫したけれど

写真提供:共同通信社


「すみません」

お立ち台に片足をかけながら頭を下げたのは、北福岡代表、折尾愛真の奥野博之監督だ。

6日目の第2試合、折尾愛真と西東京代表の日大三との対戦。
結果は16対3と日大三の圧勝だった。

「ピッチャーの小野(剛弥)は身長は165センチで球速も120キロ台です。そういうボールでも三高さんを抑えられるところを見せられたらと期待してる。何が起こるかわからないのが高校野球で、なんとかなると全国に示たらと願っています」
そんな監督の希望があった。

1回表に幸先よく先制したが、その裏。2番打者から4連続四死球を与え、さらに4連続長短打などで一挙に7失点。ゲームの体制が決まった。

「打たれるだろうから、厳しいコースを狙っていって、四死球が増えまてしまった。小野は責任感の強い子なので私がもうちょっと、気持ちを楽にさせるアドバイスをしてやれたら。かわいそうなことをした。独特な雰囲気に飲まれてしまったかな」
奥野監督は思いやった。

小野は「日大三というより球場がイメージしていた雰囲気と違い大歓声でした。球場にのまれたのではなく自分で崩れた感じです」と責任を背負ったが、春夏通じて初出場でましてや相手は優勝経験のある常連校。リラックスしろと言っても無理な話だ。結局、5人で継投した投手陣は被安打15、与えた四死球16、暴投が5つと散々な数字を積み重ねた。

この日のテーマは楽しむことだった、という。岩見駿捕手と田島秀弥外野手が口を揃える。

「この試合は笑顔で戦うがキーワードでした。楽しくやることができて、全然悔いはないです」

元はミッション系の女子校で2003年に共学になった。野球部も同年に創部された。

奥野監督は三重県の明野高校出身。86年夏から3期連続甲子園に出場した。68回大会では優勝候補だった池田を破る番狂わせを演じている。大学を卒業してから一般企業を経て、高校野球の指導者になった。

「当初、3年間ぐらいは野球グラウンドがなかったんです。建設地は背丈1メートルの草が伸び放題だった。OB、選手の父兄らも加わって整地しました。そんグラウンド作りが楽しかった。昔の苦労話なんてたくさんありすぎて」と隈元健太部長が笑う。

隈元部長は奥野監督の明野高校の12年下の後輩で監督に声をかけられて、同校の部長になった。

「今もグラウンドが校舎と離れていて5、6キロあって、移動が大変です。その他の懸案事項も他に部活が盛んで野球部が特別扱いというわけにはいかないんです」。日によって練習が18時開始と遅い日もあって、いろんな工夫が必要らしい。

そんな中での努力が実っての甲子園出場。「今年のチームは『想像している以上になれる』と言う言葉を大事にしてきました。こいつらの目標はベスト4だったので、言葉通りに上の成績を残せた」
部長が成長を喜んだ。

191センチ、88キロのプロ注目のバッター、松井義弥キャプテン。3番サードなのに背番号「10」をつけている。

「チームの中心という意味があって夏はキャプテンが『10』をつけることにしてます。4期生から部内で決めて受け継いでます」(奥野監督)

チームをまとめてきた松井が言う。

「甲子園は自分たちの持ってる以上のものが出て、自分たちの持ってる力が出ない場所。ダラダラしてる人が応援されるか? と言われたら違う。人としてどう生きるかを大切にしてきた。スタンドの大歓声を聞いた時、徹底してやってきて良かった。周りの支えてくれた人や応援してくれた人にありがとうを言いたい」

最後はその目に涙を溜めた。

奥野監督が部員の卒業後の進路も整えてやりたいという考えで、部員は毎年15人前後らしい。

監督の人柄が見えたのが、「阪神に在籍している小野(泰己)投手に入部していただいた頃からチームも強くなっていった」という言葉だ。教え子に対して謙る。子供たちとの絆はずっと続いていくことだろう。

そして選手を見守るこんな言葉も。
「昨日の練習のフリーバッティングを見ていて、よくぞここまで打てる子達に育ってくれたな、よく頑張ったなと思いました」

打撃では2年生の斉藤隼人が2ランホームランを放った。

「3年生に感謝のバッティングでしたね。うちの高校の今後、50年、100年の歴史に刻めた。これからもバッティングのチームを拘って作っていきたい」

9回2アウト、三振したがキャッチャーが落球し、一塁への送球がヘルメットに当たって出塁した星空来が内緒ですけど、と話してくれた。

「小、中学校最後の打席が三振だったのでまたか、と思いました。とにかく次に繋ぎたかったのでラインをくねくね走っていました。これは言っていいかわかりませんが球審から「楽しめよ」と言われたんです。スコアボードに自分の名前が載って、アナウンスされる経験ができる人は限られているから、と」

折尾愛真の監督と選手は甲子園の夏の浜風のように爽やかだった。

(文・清水岳志)