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"世界の野球選手工場" ドミニカ野球の成り立ち【WORLD BASEBALL vol.9】

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 いまやその存在なしにメジャーリーグ(MLB)が成り立たないと言っていいほどの人材供給国になったドミニカ共和国。約150人のメジャーリーガーに加え、900人に及ぶマイナーリーガー、それに世界各地へ「出稼ぎ」に行く選手を含めると実に2000人前後のプロ野球選手を輩出しているまさに「世界の野球選手工場」と言える存在である。


リセイ・タイガースはドミニカリーグきっての名門だ(写真はウィリー・モー・ペーニャ,元ソフトバンクなど)


 この国に野球が伝わったのは、1866年にキューバ駐在のアメリカ人海兵によって、あるいは、1880年にキューバ人によってのこととされる。

キューバと同じく日中の日差しがきつい気候は、味方の攻撃中は木陰で涼をとることができるこの競技を人気スポーツに仕立て上げ、この国の主要産業であった砂糖産業従事者の間で急速に普及していった。やがて観るスポーツとしても人々の心を捉え、1907年には最初のプロ球団、「リセイ」が誕生している。

 またこの国は、野球の母国・アメリカの事実上の支配を歴史的に受けてきたが、このことは、支配者であるアメリカ人=グリンゴ(「白人」の意)を被支配者であるドミニカ人=ラティーノが同じ土俵で打ち倒すことのできる場としての野球人気をさらに高めることになった。この国に初めてプロリーグが発足したのは、奇しくも米軍がこの国を占領しているさなかの1922年のことであった。

 こうして1920年代にはドミニカ野球は組織化を進めたが、1929年にアメリカで起こった恐慌がドミニカにも波及すると、プロリーグも1929年に中断してしまう。
その後1936年にリーグは復活するが、この翌年、独裁者トルヒーヨ大統領が集票装置として野球を利用すべく首都サントドミンゴの2チーム、「リセイ」と「エスコヒード」を統合し、「トルヒーヨ・ドラゴンズ」を組織、アメリカから選手の引抜きを行ったものの、財政破綻を起こすと、リーグは再び休止に追い込まれた。


リセイ・タイガースはドミニカリーグきっての名門だ(写真はウィリー・モー・ペーニャ,元ソフトバンクなど)


 ドミニカ野球が再び活況を呈するのは、1950年代になってからのことである。プロリーグが復活した1951年から夏季リーグとして最後のシーズンとなる54年の間、ドミニカ野球は「ベースボール・ロマンティコ」と呼ばれる黄金時代を迎える。この時期のドミニカンリーグには,周辺諸国からの選手が集まり、逆にそれらの国々で行われたウインターリーグにはドミニカ人選手が参加するなど、この時期ドミニカはキューバと並んで 中南米カリブ地域の野球の中心的存在となった。

 しかし、1954年のMLBとの業務提携以降、ドミニカはMLBの「下請け」的存在となっていく。この協定に基づき、プロリーグはウインターリーグとして開催されるようになり、1958年に起こった革命によるキューバとアメリカとの人的交流の断絶はMLBによるドミニカ野球の包摂を進めることになった。

1976年にMLBで導入されたフリーエージェント(FA)制が招いた選手報酬の高騰は、安価な選手を求めたMLB球団のドミニカへの依存をさらに強めることとなる。

MLB球団はドミニカンリーグをドミニカ人選手発掘の場だけでなく、経験の浅い若手選手の育成の場として利用するようになり、さらに1980年代になるとドミニカ人選手の青田刈りの場として各球団は野球アカデミーを次々とこの国に建設していった。

文・写真=阿佐智