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現役時代はうなされる夜も 「野球嫌い」の元日ハム選手が野球で得る「幸せ」


嫌い嫌いも好きのうち、とはよく言うが、四国アイランドリーグの徳島インディゴソックスで監督を務める中島輝士は「俺は野球が嫌いだね」と言いながら、その言葉とは裏腹に目尻を下げる。

■徳島で指揮を執る元日ハム中島輝士、独立Lの選手たちを支え続ける「親心」

 嫌い嫌いも好きのうち、とはよく言うが、四国アイランドリーグの徳島インディゴソックスで監督を務める中島輝士は「俺は野球が嫌いだね」と言いながら、その言葉とは裏腹に目尻を下げる。

「でも、中島輝士が野球を好きか嫌いかってことじゃなくて、俺が野球にどう思われてるかってことだと思うんだよね。50代半ばになって、まだ野球にかかわれているっていうのは、野球が俺に働けって言ってくれているんだなって。野球に守られているのかも分からないね。ちょっとカッコイイ言い方だけどさ(笑)」

 中島が徳島の地に降り立ったのは2年前、2014年のことだった。日本ハム→近鉄と現役生活を過ごした後、両チームの打撃コーチやスカウトを歴任。2011年には台湾の統一ライオンズにコーチとして招聘され、翌年から2年は監督を務めた。そして、2014年は徳島で打撃コーチを務め、昨季から監督に就任。プロ入りしてから現在まで、いやまだ物心もつかない3歳の頃に初めてボールを握って以来、54歳を迎えた現在まで一度も野球から離れたことがない。

 福岡の強豪・柳川高に進学し、投手として名を馳せた。プリンスホテルで社会人野球をプレーするようになってから、右肩の血行障害で野手に転向。打者としても頭角を現し、1988年のソウル五輪では「4番・一塁」として打率.436、1本塁打、6打点の活躍で、日本代表の銀メダル獲得に大きく貢献している。同年のドラフトで日本ハムに1位指名されると、翌年のダイエー(現ソフトバンク)との開幕戦に「7番・右翼」で先発出場。同点で迎えた9回裏、開幕戦としては穴吹義雄以来33年ぶりとなる新人サヨナラ本塁打を放ち、プロ野球史上2人目の偉業を成し遂げた人物でもある。

■休みは1日中テレビで野球観戦、趣味のウォーキング中も頭の中は野球で一杯

「打ったね。そんなのもあった。それで(全盛期が)終わっちゃったなぁ?(笑)」と謙遜するが、1992年にはオールスターに出場するなど、長打と強肩でチームの勝利に貢献した。同時に、10年の現役生活中には思い通りの成績が残せないことも多く、「よう夢も見ましたよ」と言う。

「走っても全然ベースに届かないの。走っても走ってもたどり着かなくて、夜中にうなされた。車のブレーキが壊れる夢も見たね。ハッとして起きちゃうんだよ。選手の頃はよく見てたけど、辞めたら見なくなったなぁ。野球がなかったら楽だっただろうなって思うこともあったよ。『なんでこの世に野球ってあるんだろう?』って」

 そんな中島に典型的な休みの過ごし方を聞いてみると……。

「夏は朝から高校野球見て、昼はメジャーリーグ見て、夜はナイター見て。女房が『ずっと見てんだね?』って呆れてね(笑)。テレビで野球がついていると落ち着くんだよ。野球がそこにあると」

 やっぱり野球から離れられない。

 趣味のウォーキングに出掛けても、「考えていることの4分の3は野球のこと」。徳島で試合がある日は1時間半、休みの日は2~3時間をウォーキングに費やしながら、戦略について考えをまとめ、チーム改善のためにアイデアをひねり出し、選手とのコミュニケーションの取り方に思いを馳せる。

■独立リーグから羽ばたく選手たち、「次に会った時、笑顔で会えるか考える」

「『アイツにああ言ったのはまずかったかな?』とか反省するし、『今度はアイツにああいうことをさせよう』とか考える。本当は野球は楽しくやるもんだけど、独立リーグは草野球とは違う。ワイワイやって、打ち上げだ!って飲み屋に行けばいいわけじゃないから。

 目の前の敵を倒す勝負事。でも、今から現役時代を振り返ってみると、あの勝負のど真ん中にいた時の緊張感やワクワク感は楽しかったなって思う。特にNPBに行けば、何万人という大観衆の前で真剣勝負ができる。一般の人は味わえない感覚。勝負の瞬間は楽しいとは思わないんだけど、今になると楽しかったなぁって」

 徳島に限らず、四国アイランドリーグでプレーする選手を1人でも多くNPBに輩出し、自分が味わった緊張感に触れてほしいと願う。その一方で、選手全員がNPBを目指しているわけではなく、野球選手という職業を諦めて一般社会に進む道へ方向転換する選手もいる。自主的に方向転換を選択する場合はいいが、時として、選手の意に反して監督が勧めなければならないこともある。

「ちょっと(プロが)難しいと思った選手には、早く野球を諦めさせるのも親心かなって思う。そりゃ、選手からしたら『何で?』って思うだろうけど、一般社会に出て次の生活を始めるには、遅いよりも早い方がいい。独立リーグはサラリーが安いから、親御さんにも支援してもらったり、ある程度の迷惑を掛けていると思うんですよ。

 もちろん、言う方もキツイ。NPBに行くヤツには『よかったな、おめでとう』でいいけど、辞めた方がいいって告知するのは辛いですよ。何年か経って『あの時きっぱり野球を諦めたから、今につながっている』って思ってくれたらいいんだけどね。次に会った時、笑顔で会えるかな?ってことも考えますよ」

■コーチとは「選手に教えるんじゃなくて、一緒に歩んでいくこと」

 野球選手として、技術を磨くことは重要だ。だが、NPBに進んでも、一般社会に進んでも、技術以上に大事なことは「精神的な強さであり、いかに内面が磨かれているか」。徳島では、技術の向上はもちろん、1人の社会人として恥ずかしくないように、人間として成長できる環境作りに努めている。監督自ら積極的に選手とコミュニケーションを取ろうと、EXILEや三代目J Soul Brothersらの曲を聴き、「『お前、これ知ってるか? 知らねえのかよ』って言ってますよ(笑)」。

 コミュニケーションの大切さを学んだのは、他でもない、台湾で過ごした日々だった。

「通訳はついていたけど、言葉が通じない。だから、選手の練習にトコトン付き合った。そうすると、言葉が分からなくてもコミュニケーションが生まれる。言葉で片付けようとしたら、選手には伝わらないんだよね。気付いたのは、選手に教えるんじゃなくて、一緒に歩んでいくのがコーチや監督だって。これが台湾に行って一番変わったこと。普段の生活でも変わったみたいで、女房が『お父さん、変わったわ』って。それまで亭主関白だったから」

 チャンスがあれば、再びNPBでコーチをしてみたい気持ちもある。「これまでの経験を生かして、今度は違った意味で選手と一緒にやれる自信はあります」という。同時に、徳島で指揮を執ることも「腰掛け程度でやるのはダメ。中途半端にはしたくない」と全力投球だ。

「こういうのも縁だから。チャンスがあればね。今は徳島で選手の内面を磨きながら、自分の内面も磨いている。俺が野球が好きとか嫌いとか考えるのはおこがましい。野球が俺に働けって言ってくれている。NPBでコーチやスカウトをやらせてもらって、台湾でコーチと監督をやらせてもらって、今度は徳島に来て、去年も今年も北米遠征の指揮を執らせてもらった。現役時代は電車の乗り継ぎも分からない世間知らずだったけど、視野が広がった。その上で、まだ野球にかかわっていられるんだから、そういう意味では幸せですよ」

 嫌い嫌いも好きのうち。やっぱり野球が好き、いや野球から好かれている幸せ者なのだろう。

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