- 高校野球
2019.08.13 09:07
9年ぶり宇和島東 牛鬼打線復活で次は勝つ【第101回全国高校野球選手権大会第7日】
牛鬼祭りとは宇和島市の勇壮な夏祭りの事だ。その牛鬼を冠する猛烈な打撃が、かつて甲子園を席巻した時代があった。
「牛鬼打線は上甲(正典)さんが作られた強力打線です」
宇和島東の長瀧剛監督は上甲さんの薫陶を受けた一人だ。97年には宇和島東の中堅手として春夏連続出場している。
愛媛県の名将といえば上甲監督だ。宇和島東では第60回センバツ初出場初優勝(88年)、04年の76回センバツでは創部2年目の済美でセンバツの優勝経験がある。2014年、安樂投手(現楽天)を擁してセンバツで準優勝、夏は県大会で敗れ、それが最後の采配となった。その直後、67歳で病気で急逝するのだ。
上甲元監督がなくなる直前、長瀧監督は病床を見舞っているそうだ。
大学卒業後、愛媛県内の高校で部長、監督を歴任し、今年の4月、母校に帰ってきて監督に就任した。
「4月にきて、彼らと出会った時に、声をかけても返事がない生徒たちでした。宇和島東ってこんなチームになってしまったのか」
ほんの数ヶ月前を苦笑いしながら振り返った。
近年は私学に押され、宇和島東は2010年以来、夏の甲子園には出場していなかった。
まず、取り組んだのがそのもの基本から。
「昔と何もかも違っていた。同じものを探す方が難しかったくらい。とにかく、挨拶、全力疾走、整理整頓、一からでした」
その分、やりがいもあったと言う。
土居毅人(兄は松山聖陵からロッテへ入団した土居豪人)投手が言う。
「監督が代わって挨拶、返事からの指導が始まりました。移動はダッシュするなど変わりました」
古豪復活には技術とともに意識改革。甲子園に出るために、単純に練習中から「甲子園」という語を発して、意識させたそうだ。
「甲子園に行ったら人生が変わるぞ」
技術面では高校野球の基本を見直した。
サポートメンバーの河野秀一朗があらためて、勝つために必要なことを学んだという。
「監督が代わって手堅い野球になった印象があります。バントが多くなりました。一日中、バント練習することもあります」
「まず甲子園に出ることを目標に置いた」(長瀧監督)取り組みは短期間で成長し、県大会はノーシードから勝ち上がり、甲子園出場を果たした。
2回戦で宇部鴻城と対戦した9年ぶりの大舞台。これが甲子園というものを見せつけられた。相手投手のテンポの良さに翻弄され、序盤は三振と凡打。追い上げムードになってからはワイルドピッチで追加点を与えてしまった。
「これからは投手の制球力、コントロールをつけること。ランナーはけん制で刺されたりした細かな部分のチェック。雑なプレーでは勝てない。またヒット13本を打ちながら、3得点だけでした。ここぞという時の、中軸が仕事をさせてもらえなかった」
それでも長瀧監督は上甲元監督のように温和なスマイルでゲーム後、答えた。
「悔しいものはあります。でも、思った以上に選手がのびのびとやっていたので、楽しい時間を過ごせたと思います。
選手として私も出ましたが、あの時は自分だけのことだけで良かった。今回は監督の難しさ、チームを動かすことの大変さを感じました。選手と一緒にこれらたこと、選手に感謝している。
彼らは試合を通じて成長するというものを見せてくれた。高校生の強さ、底力を目の当たりにしました。本気で取り組んでくれて、信じてくれて、こんなチームに変身してくれた。
まず一歩。甲子園に行くための練習をしてきて実際に来たので次は、ならば勝つために、と意識してやっていきます」
牛鬼打線は復活しただろうか。
「牛鬼打線は力をつけて、詰まってもしっかり打つこと。上甲さんが始められたバッティングです。しっかりと体作りをしていきながら技術がつけば」
5番を打った赤松拓海一塁手(2年)が決意を見せた。
「まだ〝子牛鬼打線〟です。本物になって絶対、甲子園に帰ってきます」
今の選手は上甲元監督の実績をもちろん、知らない世代。選手の中ではかろうじて、名前を知っている程度のようだ。
「上甲さんから受け継いでいる部分はないんです。ただ、よく言われたのが、普段の練習から、甲子園の切符はグラウンドのどこかに落ちているから、探せと言われていた」
上甲元監督が作った監督室に上甲さんの実物より大きな遺影を飾る。手を合わせてグラウンドに向かう日課はずっと、続く。
文・清水岳志