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営業マンを経て独立リーグ監督へ 元巨人のドラ1守護神、44歳の現在地


 かつてドラフト1位で巨人に入団し、守護神として日本一を味わった男が、初めて監督となる。ユニホームをまとう場所は、幾多の歓喜を味わったNPBではない。四国の独立リーグだ。

■02年日本一の立役者・河原純一、四国IL愛媛で監督初挑戦の理由

 かつてドラフト1位で巨人に入団し、守護神として日本一を味わった男が、初めて監督となる。ユニホームをまとう場所は、幾多の歓喜を味わったNPBではない。四国の独立リーグだ。

「いつか指導者になった時、若い子にどういう風に指導していくべきなのか考えて、野球はやってきたつもり。指導者として成長していかなきゃいけないけど、僕が1年目ということは彼らに関係ない。持っているものはすべてぶつけていきたい」

 愛媛マンダリンパイレーツ・河原純一監督。1月に就任したばかりの新米監督は、44歳にして初の監督業に情熱を抑えられずにいる。

 どん底で結ばれた縁が、5年の歳月を経て形となった。駒大から94年ドラフト1位(逆指名)で巨人入団。02年には就任1年目の原辰徳監督に守護神に抜擢されて28セーブを挙げ、リーグ優勝&日本一に貢献。日本シリーズでは胴上げ投手となった。その後、西武を経てプレーしていた中日で11年に戦力外通告。「自分としては中継ぎであれば、体力的にもまだできると思っていた」。12球団合同トライアウトを受けたが、思いとは裏腹にNPBからオファーはなかった。声をかけたのが、四国アイランドリーグ(IL)plusの愛媛。1年後のNPB復帰を目指す形での打診だったが、戸惑いはあった。

「独立リーグの存在は知っていたけど、詳しいことはわからないし、愛媛は縁もゆかりもない土地。言葉は悪いけど、眼中になかった。でも、いくら12球団でやりたいと言っても獲ってくれるところがなければプレーできない。それまでを振り返ると、自分で進路を決めてきたというより、なんとなく縁に導かれて、その場所で一生懸命に頑張ってきた野球人生。これも一つの新たな出会いになるかと感じて、お世話になろうと思った」

 1年後にはNPBに――。そう思いながら38歳の決断だったはずが、長い付き合いになった。NPBから声はかからず、4年間在籍した後、15年限りで現役を引退。そして、前任の弓岡敬二郎監督がオリックスのコーチ転身したことに伴い、就任オファーが舞い込んだ。

「いずれ指導者としてマンダリンで仕事ができることがあればいいなと思っていた。そこで、弓岡監督がオリックスで、加藤(博人)コーチも(BCリーグの)新潟で監督になるというタイミングが重なって……。今年から、そうなるとは思ってもなかった」

 そう思うのも無理はない。ユニホームを着ることになった1年前、身にまとっていたのは背広とネクタイだった。

■巨人ドラ1でも「普通の人」…「それを振りかざして生きていくことはできない」

 引退後、まず情熱を燃やしたのが、野球の普及活動だった。

「小さい子に『野球は知ってる?』と聞くと『知ってる』と言うけど、『やったことはある?』と聞くと『ない』と言う。今、グラブとボールを持っているお父さんが少ない。道具も必要で、ルールもそれなりに複雑で、きっかけとして始めづらい環境。そこを変えないと野球人口は増えないし、球界もまずいなという印象を持っていた。そういう活動ができたらいいなと」

 球団の運営会社でもある広告会社「星企画」が賛同し、16年1月に入社した。「More Baseball Project プロジェクトリーダー」という肩書で野球教室や講演を行いながら、協賛を募るための営業活動にも足を運んだ。いわば、普通の会社員である。「ジャイアンツのおかげで僕のことを知って下さっている方もいて、助かりました」と笑うが、数年で戦力外となった若手選手ならまだしも、巨人のドラフト1位で21年も現役でプレーした実力選手が選ぶ道としては、決して華やかなものではない。

 ただ、その決断は現役時代のマウンドさばき同様、冷静に自分を客観視していたからできたものでもあった。「『オレは野球選手なんだぞ』という感じが、本当に嫌いだったんです」と切り出し、こう続けた。

「いつまでも野球ができるわけじゃないし、野球選手だったことが武器になるわけでもない。昔、野球がうまかった。ただ、それだけのこと。普通の人からしたら『ドラフト1位で巨人に入った』なんて誰にも真似できないなんて言うかもしれない。でも、それを振りかざして生きていくことはできないと、ずっと思っていた。社会に出た時に順応していくものを持ってないといけないし、そこで通用するような社会人でないとダメ」

 体が大きくて、街中でプロ野球選手と気付かれることもイヤだった。その「普通の人」の感覚を「現役時代から持ち続けていた」から、ネクタイを締めることにも抵抗はなかった。「そういう意味では向いてなかったのかも、プロ野球選手には」と冗談めかして笑うが、「普通の人」だからこそ独立リーグの指導者として生きるものがある。

「今は野球が好きで一生懸命、野球を頑張る。でも、もしNPBに行って野球が終わった後には、うまくなるためにどういう風に取り組んでいたかという姿勢や考えの方が、ほかの環境でも使える武器になる。それが、結果的にNPBを目指す上でも役に立つんじゃないかなと思う」

■「分類上プロなだけ、レベルはプロじゃない」…独立リーグ指導で生きる恩師の教え

 指導者として、最も影響を受けたのは、駒大時代に指導を受けたアマ球界の名将・太田誠氏だった。「太田監督が自分の軸。その教えがあったから、あんな歳まで長く野球ができた」ともいう。叩きこまれたのは、基礎、基本の徹底。挨拶、掃除、試合はもちろん、練習に至るまでの準備……。心・技・体でいえば「技」より「心」を説く言葉が、今も胸にある。

「うわべだけやってもダメだということ。その場しのぎで一時的に良くても、将来はあまり役に立たない。だから、時間をかけて徹底的にやらないといけない。何が大事だという部分でも、基本、基礎が大事なんだなと学ばせてもらった。学生時代には理解して率先してやった、というよりやらされた部分もあった。でも、やらされてでも自分にとってはすごく身になった」

 独立リーグには、NPB入りを目指し、原石が集う。そうしたマインドが、野心あふれる若者たちにとっても必要になると考えている。「『自主性』なんて、カッコいい言葉でよく言うけど、なかなか持てない」と述べた上で「同じ目線」での指導の必要性を力説する。

「プロ野球選手になって1軍で活躍するような選手は自主性を持って取り組む。そういう人たちは何が足りなくて、そのためにどうすればいいか分かっている。だけど、愛媛にいるのは、そこまで至ってない選手たちなので、考え方や精神的な部分をきちっと教えてあげないと。一足飛びにプロ野球みたいな指導をするより、僕がアマ時代、特に大学で指導を受けた姿勢、取り組み方をしていかないと、なかなか難しいのかなと思う」

 現役時代、愛媛に来た当初フォーム確認の基本となるキャッチボールをおろそかにしている選手が多く目に付き、意識の差に衝撃を受けたという。だから「独立リーグは分類上、プロ野球選手なだけで、レベルとしてはプロ野球選手じゃない。大学や社会人、甲子園に出るような高校生の方がレベルは高い」と割り切り、“アマ選手”として基礎から指導に当たっていく。

「僕は大学こそ駒沢に行って、たくさん勝たせてもらい、ドラフトで指名をもらえたけど、中学までは軟式。高校で初めて硬式をやった。川崎の県立校で全然勝てなかったけど、そういう選手でも、大学に行って花開いて、そういう選手になれた。だから、僕はプロ野球目線であまり接したくないし、その必要もないのかなと感じている」

■「この子たちには時間がない」…NPB入りへ選手たちに求める「意識」と「志」

 NPB在籍17年。生き馬の目を抜くプロの世界を歩み続けた自負があるから、NPBを目指す上で求める意識レベルは高い。

「育成でもいいからプロ野球選手になれたらいい、という考えは違うと思う。ユニホームさえ着られたら、行ったら行ったで頑張るさなんて、そんなに時間はない。毎年、毎年すごい選手が入ってきて、ダメな選手は切られる。プロになった上で、それなりに仕事ができることを今から目指しておかないと。できるだけ高い志を持っていかないとダメ」

 就任1年目。2月1日から本格的に練習が始まり、NPBを目指した「育成」とリーグ優勝という「勝利」の二兎を追いかける日々が幕を開けた。「優勝することも大事。だけど、勝ったり負けたりの中から学んで成長することも当然ある。しっかりとした技術、体力、考え方、心技体も同時に身に着けないといけない」と理想を掲げる。

「大げさな話、140キロくらいの投手で直球、変化球をまんべんなく投げられたら、ここではそれなりにいい結果は出せる。でも160キロ出せるけど、コントロールが悪いという人がいたら、そっちの方がプロからしたら魅力的。独立リーグで10勝、防御率1点台を残したから、間違いなくプロにかかるならいいけど、そうじゃないなら、プロの目に留まるものを身に着けることが大事になる。そういう選手たちが集まり、いい集団ができて、チーム力となった結果、試合でいい勝負ができるというところじゃないかな」

 現役時代、ピンチの場面でも鉄仮面をかぶっているかのように、感情を出さない姿が印象的だった。果たして、指導者としてグラウンドでは、どんな“顔”を見せるのだろうか。

「マウンドにいる時は弱い姿を相手に見せちゃいけないと指導を受けてきたけど、指導者としてはできる限り厳しくいきたい。プロに入るなら、年齢も大きな武器になる。この子たちには、やはり時間がない。僕には厳しく言ってくれる人がいたし、腹が立つこともあったけど、それが良かったわけで。厳しくやりたいなと思う。もちろん、自分に対しても厳しい気持ちを持って、ね」

 最後に「今までの野球人生で僕が大切に思ったことは惜しみなく伝えてあげたい」と付け加えた新指揮官。かつてクールな表情でマウンドに君臨した男は、愛媛の地で、情熱的にグラウンドに立っている。

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