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自分の弱さと向き合った20年 “代走屋”鈴木尚が積み重ねた228盗塁の歴史


2016年、NPBでは数多くの選手がプロとしての一歩を踏み出し、数多くの選手がユニフォームを脱いだ。巨人一筋20年、今季はチーム生え抜き最年長選手だった鈴木尚広氏もその一人だ。ファンに愛され、惜しまれながらも現役生活にピリオドを打った鈴木氏に、“代走職人”として駆け抜けた現役生活を振り返ってもらった。

■失敗続きで決めた初盗塁にホッ…走塁のスペシャリストが歩んだ20年

 2016年、NPBでは数多くの選手がプロとしての一歩を踏み出し、数多くの選手がユニフォームを脱いだ。巨人一筋20年、今季はチーム生え抜き最年長選手だった鈴木尚広氏もその一人だ。

 1994年ドラフト4位で福島の相馬高校から入団。怪我に泣かされる日々が続いたが、類い稀なる走力を認められ、2006年から1軍に定着した。2008年にはゴールデングラブ賞と日本シリーズ優秀選手賞を受賞。2010年以降は代走の切り札として起用される中、2015年にはオールスター出場を果たした。今季は出場試合数こそ減ったものの、手に汗握る勝負どころで登場し、12年連続2桁盗塁を決める活躍を見せた。

 2002年の1軍デビューから今年10月にスパイクを脱ぐまで、“走塁のスペシャリスト”として積み重ねた228盗塁。長い巨人の歴史を振り返ってみても、柴田勲氏(579盗塁)、松本匡史氏(342盗塁)に次ぐ歴代3位という立派な記録だ。ファンに愛され、惜しまれながらも現役生活にピリオドを打った鈴木氏に、“代走職人”として駆け抜けた現役生活を振り返ってもらった。

――まだ引退されてから日が浅いですが、実感は沸いてますか?

「じわじわと感じるものはあります。引退セレモニーを開いていただいた今年のファンフェスタはスーツでしたからね。もうユニフォームを着ることがない事実と、スーツ姿の自分を重ねた時に、『引退したんだな』って」

■意識して作った「表情」、「はったりでもいいと」

――プロ20年、巨人一筋で過ごされました。引退セレモニーでもファンの声援に感じることがあったと思います。

「自分の力を後押ししてくれたファンの声援は、僕にとって絶対に欠かせない必要な存在でした。大いに力になるんですけど、時にはプレッシャーにもなり(笑)。でも、常に期待されていることを実感させてくれました」

――代走という失敗の許されない一発勝負の場面で出場。ただでさえプレッシャーは大きかったと思います。

「最後まで慣れた感覚はないんですけど、最初は大変でした。代走で出場して、リードを取るだけで、自分の心臓の鼓動が聞こえてくる。本当に心臓が口から飛び出してくるくらいの感じでした。歓声も、ヘッドフォンを耳につけている感じで、ボワーンという雑音にしか聞こえない。上体が浮き上がっている気がして、地に足が付かないって、こういうことなんだろうなって思いましたね」

――1軍に上がった年(2002年)は、しばらくそんな感じだったんでしょうね。

「ですね。でも、はったりでもいいと、緊張している顔は見せないようにしました。やっぱり話す時でも何をする時でも、顔と顔を合わせると一番感情を捉えやすい。野球はメンタルが重要なスポーツで、心理的な駆け引きも必要なので、淡々とした顔を作ってましたね。ようやく地に足がつくまで2、3年はかかりました。いつ行っても緊張しなくなるまでには10年はかかりましたね」

――経験を積み重ねる中で、精神的な強さも身についた……。

「周りから見ると、精神的に強く見えるかもしれないですが、決して強い人間ではないです。強かったら、何もしなくても最初から勝負ができる。でも、弱いから、自分をコントロールできないから、結果を残すために準備して、トレーニングを積み重ねて、その一瞬に懸けた。だから、弱者ですね」

■代走に「生き残る術」見出したプロ生活

――自分の弱さと向き合う作業は、決して簡単ではありません。

「そりゃ嫌ですよね。でも、毎日結果が出るプロの世界では、避けては通れない。うまく避けたと思っても、必ずまた同じことが起こるんです。それを繰り返して年数を重ねると、なかなか弱さと向き合えなくなってしまう。歳を重ねれば変なプライドも出てきますし、立ち位置も変わってくる。だから、早いうちに自分で向き合って、芽を摘んでおいた方がいいじゃないですか」

――そこに気付くきっかけがあったのでしょうか?

「気付くというより、本当に生きる術がそこ(代走)しかないんで。どんな強みを持っていても、それを生かすには欠点を補わなければならない。毎日その作業の連続でしたね」

――自分の弱さと毎日向き合う。それを20年積み重ねることは並大抵ではできません。

「プロ野球選手だったら当然のことじゃないですかね。野球で結果を残すためには、自分では決められない要素があるけど、決められる要素もあるんですよ。だから、自分でコントロールできる部分は、できるだけ完璧に近づけたい。一生を終える時に人生を振り返れば、野球をしている時間は本当に何分の一。その間は野球のことばかり考えて、野球をやってもいいかなって思っていました」

――身体のメンテナンスにも、相当気を配られたと思います。

「トレーニングにしても身体のケアにしても自己責任になる。僕は若い頃に怪我が多かったので、怪我をするのも自己責任だって感じることが多かったです。野球選手は身体1つ、自分の身体が商売道具。言ってみれば、肉体労働者ですよね(笑)」

■何をするにも第一声は「スミマセン」、これからは「走塁の魅力伝えたい」―

――プロ通算228盗塁を決めたわけですが、一番思い出に残っている盗塁や走塁はありますか?

「思い出はたくさんありますけど、ゼロ、そして1から始まったものなので、やっぱり初盗塁ですね。ヘッドスライディングをして決めました(2002年4月14日、本拠地での中日戦で9回裏に二盗成功)」

――うれしかったでしょうね。

「うれしいというよりホッとした感じ。実はそれまで失敗続きだったんです。ルーキーだし、失敗が続くと心理的にプレッシャーがかかるじゃないですか。『ヤバイ、見られてる』『次失敗したらどうしよう……』っていう中での成功だったから、『あぁ、よかった?』ってホッとした気分が先に立ちました。『よかった、これで明日があるな』って(笑)」

――初盗塁を決めるまでの緊張感と言ったら……。

「ドキドキもいいところですよ。練習開始から、ずっとですから。僕が1軍に上がった2002年のメンバーは蒼々たる顔ぶれ。松井(秀喜)さんもいらっしゃいましたし、桑田(真澄)さん、清原(和博)さん、仁志(敏久)さん……超一流ですよ。そこで失敗が続いていた。隅に追いやられるってこういうことだなって思いました(笑)。何をするにも第一声は『スミマセン』。球場に行きたくない時もありましたよ。追い込まれると、好きなものも嫌いになるんですね(笑)。嫌いというより自信がなかったからなんですけど、しばらくドキドキが続きました」

――そこから“走塁のスペシャリスト”と呼ばれるまでになるわけですから、まさに千里の道も一歩から、ですね。

「ドキドキせずに、うまく感情をコントロールできるようになったのは、極々最近だと思います」

――今年も10盗塁を決めて12年連続2桁盗塁を達成しました。まだ現役を続けられる感覚もあったのでは?

「いや、僕は常に全力を出し尽くしてやってきたんで、とにかく悔いはないです。自分で決めたことですし。引退した今でも、常に野球のことを考えている。今度は、どうやって野球の面白さ、走塁の面白さを、人に伝えていったらいいのかなって。僕は若い頃に怪我を重ねて、30代になって怪我をしなくなった人間。これからは、そういったことも教えながら、走塁の魅力を伝えていきたいと思います」

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