BASEBALL GATE

プロ野球

日本球界復帰の日ハム村田透は輝けるか 主な“逆輸入投手”の成績は?


今季インディアンス傘下3Aに所属した村田透投手が日本ハムと契約合意したことが発表された。NPBで1軍登板のない村田はいわば“逆輸入投手”。そんな31歳右腕は果たして輝けるのか?ここで主な“逆輸入投手”の成績を振り返ってみたい。

■過去にもいた米国からの“逆輸入投手”、日本球界で活躍できたのは?

 今季インディアンス傘下3Aに所属した村田透投手が日本ハムと契約合意したことが発表された。2007年大学・社会人ドラフト1巡目で巨人に入団したものの、1軍登板を果たせないまま2010年オフに戦力外に。その後、インディアンスとマイナー契約を結び、単身渡米。2011年からプレーし続けてきた。

 ルーキーリーグから這い上がり、昨年は3Aで15勝を挙げて最多勝をマーク。同6月28日には念願のメジャーデビューも果たし、オリオールズ戦に先発して3回1/3を投げ、4安打5失点(自責3)。敗戦投手となった。

 メジャーでは1試合の登板にとどまったが、マイナーでは通算164試合の登板で46勝(28敗)。今回は日本一球団との契約が合意に達し、来季7年ぶりに日本復帰することが決まった。NPBで1軍登板のない村田はいわば“逆輸入投手”。そんな31歳右腕は果たして輝けるのか?ここで主な“逆輸入投手”の成績を振り返ってみたい。

◯村上雅則投手(NPB→MLB→NPB)
MLB成績 54試合登板、5勝1敗9セーブ、防御率3.43
NPB成績 566試合登板、103勝82敗30セーブ、防御率3.64

 1963年に高校在学中に南海と契約し、3試合に登板。64年にジャイアンツ傘下1Aフレズノに野球留学で派遣され、日本人初のメジャー昇格を果たすと、2年間で通算54試合に登板。日本人として初勝利、初セーブ、初安打などを記録した。66年から南海に復帰し、70年から3年連続2桁勝利をマーク。その後、阪神、日本ハムとトレード移籍し、通算566試合に登板した。

■マック鈴木はメジャーで100試合以上、大家は200試合以上に登板

◯マック鈴木(高校→MLB→NPB)
MLB通算 117試合登板、16勝31敗、防御率5.72
NPB通算 53試合登板、5勝15敗1セーブ、防御率7.53

 高校中退後に渡米。19歳シーズンの94年にマリナーズとマイナー契約し、96年に村上、野茂英雄に続く日本人3人目のメジャーデビューを勝ち取った。2000年にロイヤルズで29試合に先発し、8勝10敗、防御率4.34の成績を残すなど、メジャー通算6シーズンで117試合に登板。02年のドラフト会議でオリックスから2巡目指名を受けて入団。03年にNPBデビューを果たすも、同年は29試合登板(19試合先発)で4勝9敗1セーブ、防御率7.06と低迷するなど結果を残せず、2年で戦力外となった。その後、メキシコリーグや台湾リーグでプレーした。

◯大家友和(NPB→MLB→NPB)
MLB通算 202試合登板、51勝68敗1ホールド、防御率4.26
NPB通算 63試合登板、8勝17敗、防御率5.23

 93年のドラフト会議で横浜にドラフト3位指名を受け、京都成章高から入団。5シーズンで通算34試合に登板し、1勝2敗の成績を残したが、98年シーズン終了後に球団が米球界挑戦を了承したため、レッドソックスとマイナー契約。1年目の99年にメジャーデビューを果たした。01年途中にトレードでエクスポズに移籍し、02年に13勝8敗(防御率3.18)、03年に10勝12敗(同4.16)と先発ローテの一角として活躍。5球団を渡り歩き、計10シーズンで202試合に登板した。10年に横浜と2年契約を結び、12年ぶりに日本球界復帰も、2年間で7勝15敗に終わり、戦力外となった。

■多田野は日本ハムからドラフト1位指名で“日本復帰”

◯多田野数人(大学→MLB→NPB)
MLB通算 15試合登板、1勝1敗、防御率4.47
NPB通算 80試合登板、18勝20敗2ホールド、防御率4.43

 03年にインディアンスの入団テストに合格し、マイナー契約。04年にメジャーデビューを果たした。同年は14試合登板(4試合先発)で1勝1敗、防御率4.65。しかし、翌05年は1試合の登板に終わり、06年4月に戦力外に。その後アスレチックスとマイナー契約を結ぶも2年間でメジャー昇格は叶わず、07年のドラフト会議で日本ハムから大学生・社会人ドラフト1巡目で指名を受けた。1年目の08年は19試合先発で7勝7敗、防御率4.78。10年シーズン終了後に日本ハムから戦力外通告を受けたが、同年末に再契約。計7シーズンで80試合に登板し、14年シーズン終了後に2度目の戦力外通告を受けた。

◯藤谷周平(米大学→NPB)

 小学校の時に家族の仕事の事情で渡米。ノーザン・アイオワ大学3年時にトップ・プロスペクト(若手有望株)として注目され、パドレスからドラフト18巡目で指名を受けるも、入団は拒否。南カリフォルニア大を経て、10年のドラフト6位でロッテに入団した。しかし、1軍での登板はなく、14年シーズン終了後に戦力外となった。

関連リンク