BASEBALL GATE

プロ野球

最年少15歳で阪神に指名と、その後。
辻本賢人、再挑戦の日々に悔いなし。

酒井俊作(日刊スポーツ)
Syunsaku Sakai
photograph by Yoshimasa Miyazaki (Seven Bros.)

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久しぶりに彼と会ったのは夏の盛りだった。兵庫・芦屋の焼き鳥屋で知人と飲んでいると、不意に姿を見せた。あどけない表情は消え、あごひげを蓄え、ハンチング帽がすごく似合う。貫禄すら漂い、すっかり大人の男に変わっていた。

「あの後、どうしていたんだ? 」

 柔らかい関西弁は相変わらずだった。懐かしさもあって、つい聞き込んでしまう。無理はない。彼と長々と話したのは、もう7年前なのだ。日付も克明に覚えている。’09年10月1日。広島カープを取材していた昼すぎ、携帯電話が鳴った。

「お世話になりました。俺、トライアウトを受けます。まだまだ頑張ります」

 そうか、ダメだったのか……。辻本賢人が阪神にドラフト8巡目で指名されたのは’04年秋だった。無名どころか、中学3年の学年にあたり、ドラフト史上最年少の15歳で指名されると世間は驚き、一躍、脚光を浴びた。在籍5年間の奮闘実らず、タイガースを戦力外になった。前向きに声をはずませたが、11月の12球団合同トライアウトも球速は130キロを超える程度で、他球団から声は掛からない。わずか20歳で、現役引退の危機にさらされていた。

■藪恵壹の勧めでアメリカでの再チャレンジを。

「阪神を辞めた後、僕は自信がなかった。どれだけやりたくても、能力がなければ、できない。続けられると思っていなかった」

 絶望感を募らせたとき、周りには人がいた。大阪で主治医が同じだった縁もある、元阪神でメジャーリーガーの藪恵壹(元阪神投手コーチ、現野球解説者)もその1人だ。「このまま終わるのは嫌だ」。その思いを察すると、こう言った。

「思い切ってアメリカに行って、やればどうだ」

 かつて、中学時代に過ごした国だ。霧は晴れた。’10年2月、藪と向かった先はアリゾナだった。根本的に投げ方から見直した。上手投げだったが、藪やメジャー関係者からも、腕を下げるよう勧められた。そこにはサイドスローのサウスポー、ジェフ・ウィリアムス(現阪神駐米スカウト)の姿もあった。辻本も言う。

「野球を続けるなら何か特徴がないとチームに入れない。横から投げたら、すごく、しっくり来ました」

■ハワイでの野球生活はハングリーそのもの。

 キャッチボールでも球速が出るようになった。投げ方が固まれば今度はチーム探しだ。自ら、4月にアリゾナで行われる4つの独立リーグ合同のトライアウトを見つけ、照準を定める。打者2人を中飛、三ゴロに抑え、特筆すべきは球速だった。143キロを計測し、失われていた球威を取り戻した。直後、球場で行われたドラフトで真っ先に名前を呼ばれた。行き先は決まった。ハワイだ。ゴールデンベースボールリーグのマウイから1位指名された。

 荒波にもまれた人生は、年輪を幾重にも太くしてくれる。常夏の島では厳しさも味わう。一般家庭でのホームステイ。1カ月1000ドルの薄給だった。貯金を切り崩し、生活費を稼ぐため、イベントを仕切るアルバイトもした。

「毎日がとても不安でした。メシもロクに食えないんです。チームメートが20人以上いるのに、用意されている食事が18個だけ。試合が終わったら、思い切り走ってメシを取りに行ったり。早い者勝ちなんです」

遠い存在だったメジャーが「近く感じました」。

 容赦なき戦場だったが、辻本が得たのは阪神時代にはない「自信」だった。

「初めてでした。チームに頼ってもらって、一番いい場面で投げさせてもらえた。人生で初めてケガなく1シーズン、投げられた」

 ある日、過去に在籍した選手の噂を耳にした。「あの選手は独立リーグから3Aに行ってメジャーに上がった……」。目線が変われば人生が変わる。辻本は「すごく遠いものが近く感じました」と言う。

 マウイでは公式戦32試合に登板して3勝2敗2セーブ、防御率2.88。34回 1/3 で48奪三振が光る。スリークオーターから内角をえぐる速球は威力抜群。直球の最速は151キロまで伸びていた。

■「ダメもとで」レイズの入団テストを受験。

 あるいは、もっとも大きな決断だったのかもしれない。野球で印象に残る光景を聞いたとき、ふと思い出したように話が脱線する。

「なんでなんかな……。3000ドルっていうのを、すごく覚えていますね」

 大リーグのスカウトは独立リーグでも、逸材に目を光らせる。マウイも、数人がリストアップされた。公式戦終了後、タンパベイ・レイズから監督のもとに、入団テストを打診する一報が入ったことを聞きつけると、辻本の血が騒いだ。

「僕はリストに入ってませんでした。でも『俺もダメもとで見てもらおう』って思って。自分で飛行機代を出して行こうとね。3000ドルだった。前もって予約していたら安いけど急やから。むちゃくちゃ悩んだのを覚えています。どうしよう、このお金……。でも行くしかないよなって」

 眠れない夜を過ごした。ベッドで何度も寝返りし、頭の中で反芻する。3000ドル、3000ドル、30万円……。

「ほとんど抱きつきに近い。行けば、あとで何とかなる。向こうで野球をやりたいというより、やれると思った。じゃないと行っていない」

 ハワイから飛行機を乗り継いでフロリダへ。機内では一睡もできない。気持ちの高ぶりは抑えられなかった。

■初めて投げたシンカーでマイナー契約を獲得。

 3000ドルの航空券とともに、バッグに忍ばせていたものがあった。自作の投球DVDだ。マウイでの登板を自ら映像編集し、メジャーのスカウトに配って回った。だが、そんなモノすらしのぐ快投だった。

 最速148キロの速球を武器に3者連続三振を奪う。満点のアピールを終えると担当者に呼ばれた。「もう1回、投げろ。シンカーを投げてみろ」。投げたことがない球種だった。開き直って腕を振ると打者のバットをへし折った。シンカーなのに145キロ出ていた。

 レイズのスカウトが近づいてきた。

「電話番号を教えろ。お前はマイナーのチームに行かなきゃダメだ。俺が絶対にどこかに入れてやる」

 元日本ハムのロブ・デューシーだった。1カ月後、レイズは不合格になったが、ニューヨーク・メッツとのマイナー契約を勝ち取った。’11年2月のことだった。辻本は述懐する。

「もし、フロリダに行っていなかったら、絶対にメッツに入っていなかった。もう1年、ハワイにいた」

■すべてをやり切った野球人生に後悔はない。

 メッツでは右肘を故障してメスも入れた。晴れ舞台に立つことはなく、’13年で人知れずユニホームを脱いだ。アメリカ行きを勧めてくれた藪に連絡を入れた。

「もうやりきりました。肘のリハビリも大変だし、もう方向転換します」

「悔いはないか」

 不思議だった。もう心は晴れ晴れとしていた。辻本はきっぱりと返事した。

「やるだけやりました」

 たまにテレビでメジャー中継を見る。今季、メッツで9勝を挙げた左腕のスティーブン・マッツや7勝の長髪右腕、ジェイコブ・デグロムはかつてマイナーで苦楽をともにした仲間だ。「マッツにね、僕がギターを教えたんですよ」と目を細める。日本人に目を向けると、大リーグ挑戦1年目から16勝をマークしたドジャース前田健太は同い年だし、ヤンキース田中将大にいたっては中学1年時に宝塚ボーイズで、チームメートの強肩捕手だったという。辻本の歩みを知る藪は、見落としがちな足跡を指摘する。

「胸を張っていいよな。マイナーでも、入るのは、とても難しいこと。あの年代の日本人で、誰よりも早くMLBの傘下チームに入ったのは賢人なんだ」

 いま、翻訳を仕事にする辻本は「阪神を戦力外になったあと、いろんな人に助けてもらいました」と感謝する。出会いを生かして、ひたむきになった季節だった。阪神で夢破れた男は、誰も知らない「勲章」を手に入れていた。