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高校野球

駒大苫小牧V1左腕2本柱の一角・岩田聖司
コーチ兼任選手として今もチームを引っ張る

2004年、北海道勢として初めて夏の甲子園を制覇した駒大苫小牧。岩田聖司は同じ左腕の鈴木康仁とともにマウンドを守った。


「ここ(トランシス)でお世話になって、もう10年になります。年齢もチーム内では上から2番目になりました」
 岩田聖司さん。夏の甲子園、深紅の大優勝旗が初めて津軽海峡を越えた2004年夏、第86回大会で駒大苫小牧のエースナンバーを背負った左腕は北海道を熱狂させた。
「この季節になると今年の駒大(苫小牧)はどうかな? と気になりますよ。(同期のキャプテンだった佐々木)孝介が監督ですし。でも僕自身のシーズンと重なるので練習に顔を出したり、応援にもなかなか行けないんですよ」
 岩田さんは現在、苫小牧市に隣接する千歳市の物流会社「トランシス」に勤務する。トランシスは岩田さんが所属する社会人野球のクラブチームを運営するNPO法人「北海道マーリンズ」のスポンサー企業。選手の大半が所属しており、角田(つのだ)辰哉社長は駒大苫小牧野球部OBだ。
「高校卒業後、進学した駒大で2年時にケガをして手術をしてリハビリで北海道に帰りましたが、いろいろあってその時は(野球への)気持ちがすでに切れていて、そのまま退部して大学も退学しました。当時のことは振り返りたくないな、と思った時期も正直、ありました」と11年前の苦悩を振り返る。
 帰郷を知ったチームから声をかけられて再び野球を始めたのが2007年3月。同時期に正社員として入社。以降、野球と仕事に走り続けて10年以上になった。
「先日まで肩が痛かったし体はけっこうガタがきています。(トランシスは)クラブチームとしては恵まれている方ですが、練習時間も限られる中、試合となれば無理をしてしまうので。運動会のお父さんみたいな感じですよ(笑)」
 ちなみに岩田さんは選手兼任コーチながら投手、外野手として今なおチームの中心選手。今年は予選で敗れたが全日本クラブ選手権、そして都市対抗野球の東京ドーム出場を目指している。

ユニフォーム姿で迎えてくれた岩田さん。30歳を超えた今も当時の面影を残す。


野球をし続けるモチベーションは
甲子園で優勝してもいまだ残る後悔

 職場での肩書きは倉庫作業課の主任。
「倉庫内で荷物を仕分けたり、管理する仕事です。フォークリフトを動かす作業に加えてお客様の荷物をどう効率的に運ぶかなど、マネジメント的要素も強くなってきました」
 会社の成長とともに歩んできた10年間でもあった。
「会社方針が『変化なくして進化なし』なんですよ」。
 ……『変化なくして進化なし』。思えば当時の駒大苫小牧もそんなイメージだった。
そう向けると岩田さんは頷きながら「そうですね。でも当時は毎日が必死でした。その必死さも高校野球だと思います」と話す。
 そして在学中、2年春夏、3年夏と3度の甲子園出場を果たし、最後は日本一に。
「(調子は)3年夏の甲子園が一番良かったのかな、と。前年のこと(8対0とリードも降雨ノーゲーム。翌日の再試合で敗退)があって、先輩への想いもあり、絶対に初戦を突破するという気持ちだけでした。初戦に勝って妙なプレッシャーから解放されました。でも準々決勝の横浜戦のあとから疲れが一気に出て、左中指の皮が大きくめくれてしまいました。準決勝は水絆創膏を塗って投げ切れたのですが、決勝は試合前にはがれてしまってダメでした。(2回途中で降板し)チームに申し訳ない気持ちでした」

夏の甲子園決勝戦、先発するも2回途中でマウンドを降りた岩田さん(左)


「仲間や指導者に恵まれた高校野球でした。でももっと練習をしておけばよかったとも思います。チームとしては最高の結果でしたが個人的な悔いも多いですよ」
 甲子園で優勝していても後悔があるということに少し驚いた。やはり背番号1を背負う男、不甲斐なかった決勝の投球は、今も脳裏をよぎる。
「その後悔が今も野球を続ける原動力になっています。今思うと甲子園が与えてくれたものの中で一番大きなもの。ですから高校球児たちには一日一日、いかに自分を追い込めるか、を意識してほしい。追い込まないと見えてこないこともあるので。そして悔いを残したとしても、次へ大きく前へ踏み出せる後悔にしてほしいですね」。
 昨年結婚し、休日には2カ月(取材時)の娘と遊ぶ。
「親ってすごいですね。今さらながら親に感謝し続ける毎日です」
 仕事、野球、そして新米パパとしてフル回転の日々はしばらく続きそうだ。

投手、外野手、コーチと〝3足のわらじ〟で今もクラブチームで全国の舞台を目指す。


取材・文/長壁明 編集/田澤健一郎