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野球の面白さと選手の魅力を“しゃべり”で伝える!アナウンサー・大前一樹氏が歩んだ道と実況する上で大切なこと<前編>【Baseball Job File vol.23】

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野球界にかかわるさまざまな人々にスポットを当てる連載。今回は、プロ野球の実況でお馴染みのフリーアナウンサー・大前一樹氏が登場。

阪急小僧だった少年時代から、アナウンサーとして就職し、そこからオリックス球団職員として神戸移転プロジェクトに携わった道のりと、その中で心がけていること、“しゃべり手”として大切にしていることを聞いた。

■原点は西宮球場、ブレーブスに魅せられて

――野球を中心に様々なお仕事を幅広くされていますが、肩書きは「アナウンサー」で間違いないでしょうか?

大前 そうですね(笑)、いろいろとやらせてもらっていますが、フリーアナウンサーというのが一番簡単に分かってもらえるかなと思います。ラグビーやバスケットもやっていますが、一番多いのはやっぱり野球の仕事。住んでいるのは神戸ですが、月に1週間分ぐらいは東京に来ているという生活ですね。

――大前さんの実況を聞いていると「野球への愛」というものを感じますが、子供の頃から野球小僧だったのですか?

大前 親父が野球ファンだったので子供の頃によく西宮球場に連れて行ってもらいました。阪急沿線に住んでいたので、阪急ブレーブスのファンでした。初めて球場に試合を観に行ったのは昭和44年、阪急ブレーブス対東京オリオンズの試合でした。その試合で阪急は4対0で勝ったんですけど、ホームランが出なかったんです。だから「ホームランが観たい!」と親父に頼んで、また連れて行ってもらった。そこからハマりましたね。それが小学校2年生、8歳の時でしたね。

――球場で初めて見たプロ野球というのはどういう風に感じましたか?

大前 「すげぇなあ!」ですよ。内野フライでもめちゃめちゃ高く上がる。「プロ野球ってこんなにすごいんや!」と思った。自分自身も少年野球を始めた頃で、あんな速い球を投げて、あんな遠くにボールが飛んでいくというのを見て、やっぱり感じるものはありましたね。そしてそこからはずっと“阪急小僧”でした。ファンクラブにも入って、学校が終わってからもよく西宮球場に行きました。1970年代の阪急、世界の盗塁王の福本豊さんがいて、山田久志さんが投げて、という時代でした。

――大前さん自身はいつまで野球をプレーされていたのですか?

大前 僕は小学校までで、中学になった時に辞めました。僕、小学生の頃、ロン毛だったんですよ(笑)。リトルリーグまでは長髪でも許してもらえていたんですけど、中学の部活は「絶対に丸刈り」ということ、それが嫌で断念しました。

もちろん野球は好きでしたけど、その時点で本当にすごい奴とのレベルの違いも分かったので、選手として自分がこれ以上やり続けるのは無理だと思ったということも理由にありました。試合で対戦すると、ぜんぜん打てないすごいピッチャーがいる。そんな人たちのトップの中のトップが集まったのがプロ野球ですから、選手たちは本当にすごいと思っています。

■和歌山放送からオリックスへ

――高校、大学と関西で過ごされますが、アナウンサーという職業に関しては、子供の頃からなりたいと思っていたのですか?

大前 ぜんぜん考えてなかったです。大学は文学部だったんですけど、大学3年の時にゼミの先生から「将来、何するんだ?」と聞かれて、「何しようかな」と…。元々は放送作家になりたくて、ときどき吉本とかに漫才の台本とかを送ったりもしていたんです。

でも放送作家になるには誰かの弟子になる必要があって、それよりも放送局に入ったら放送作家のような仕事もできるかな、と…。じゃあ「何の職種で?」と考えた時に、何も技術を持っていなかったので、「アナウンサーならいけるんじゃないか」と思って目指すようになった。高校野球の実況をしてみたいという気持ちがありましたね。

――大学卒業後に和歌山放送に入社されましたが、そこでは何年働いたのですか?

大前 6年ですね。高校野球や南海ホークスの試合の実況を担当しました。短い時間でしたけど、いろいろと学ぶことができました。ただ、大学までずっと自宅の近くに通っていたこともあって、和歌山まで行くというのは正直、嫌でしたね。

和歌山市内に家を借りていたんですけど、夜遅くなって帰れない時以外は極力、実家に帰っていました。当時は電車でちょうど2時間。実家と和歌山、だいたい半々くらいの生活でした。そういう中でもいろんなことを教えてもらいましたし、いろんなことを経験させてもらいました。

――その後、和歌山放送を退社して、オリックスの球団職員となりました。最初はどのような仕事を担当されたんでしょうか?

大前 その時は僕自身、もうアナウンサーをするつもりはなくて、球団職員としての仕事に就きました。最初に担当したのが「神戸移転プロジェクト」でした。西宮球場からグリーンスタジアム神戸に本拠地を移す。まだ公には発表されてない時に秘密裏に進めていくプロジェクトチームに入りました。ユニフォームをどうするか。マスコットをどうするか。ニックネームをどうするか。そういったことを考えるのは面白かったですね。

■神戸移転プロジェクトから生まれた「スタジアムDJ」

――オリックスが本拠地をグリーンスタジアム神戸に移転させたのが1991年です。その中で「スタジアムDJ」というものが誕生した?

大前 そうです。それも神戸移転プロジェクトの一環で、僕がオリックスに入った時にはもうDJ KIMURA(木村芳生)君の採用が決まっていた。そして僕が元アナウンサーということで、来年の開幕までの半年間で「しゃべり方をしっかりと教えてやってくれ」と言われて…。

このDJ KIMURA君が、日本で初めて男性の球場アナウンサーになったんです。日本には「ウグイス嬢」という独特の文化がありますが、「別に男でもええやんか」、「どこもやってないならうちが最初やろう」という発想でした。

――日本初の試みだったんですね。すぐに認知されたのでしょうか?

大前 最初は困りましたね。新聞などには「ウグイス親父」とか、「ウグイス男」とか書かれて(笑)、「これはちょっとマズイな…」と。僕らのイメージと違っていたので、木村君と2人で呼び方を考えて、その時に「スタジアムDJ」という言葉をつくった。

木村君は、それまで普通のDJとしてディスコでライブ活動をしていたので、「DJなんだから“スタジアムDJ”でええやん」と。そして「ウグイス親父」なんて言われないように、球団から正式に「スタジアムDJ」という肩書きを発表させてもらったんです。

――最初、球場に来たファンの反応というものは、どのような感じでしたか?

大前 そりゃあもう、非難轟々ですよ。「何を言ってるのか分からん!」とか、「もっと普通にしゃべれ!」とか、いろいろと言われました(苦笑)。でも「まぁ、そのうち慣れてくるだろう」と思ってやり続けました。

最初はハイブリット方式で、ビジター側はこれまで通りにウグイス嬢に選手名を言ってもらって、ホーム側だけスタジアムDJ。徐々に慣らしていって、3年目ぐらいには浸透したかなと思います。今は多くのチームで選手が打席に入る時に出囃子というか登場曲をかけていますけど、それもこの時にオリックスが最初なんですよ。

木村君がターンテーブルを置いて、レコードを回してやっていた。流す曲も、初めの方はこちら側が「こんな曲どうですか?」って選手に聞いていたんですけど、そのうち選手の方から「この曲をかけてください」って言ってくるようになって、今のような形になっていきました。

――当時、オリックスにはイチロー選手がいて、「イチロー・スズキィー!」のコールが印象的ですが?

大前 そうですね。ちょうどイチロー選手が出てきた頃ですね。その前にパンチ佐藤さんでしたね。曲は「函館の女」ですよ。「タタターンタンタンタン、トトトトトーン」って(笑)。1番に松永さんで、2番に福良さん。石嶺さん、ブーマー、藤井康雄さんがいてという、ブルーサンダー打線。懐かしいですね。

――選手たちからの評判はどうだったのですか?

大前 最初は若干、「えぇ?」っていう部分があったと思いますけど、だんだん慣れていった。とにかくまずは「選手に受け入れてもらわないといけない」ということで、木村君にもチームのイベントだったりキャンプの練習だったりにも参加して、球拾いでも何でもして、選手に顔を覚えてもらうことから始めてもらった。

その中で「新しくこういうことをやりたいんです」って説明したら、選手たちはすんなりと受け入れてもらった。それよりも球場に来るオールドファンの方々に慣れてもらうのに時間がかかりましたね。

――その後、1993年から再びアナウンサーとして実況を担当することになりました。自分がしゃべっている方がしっくりと来た部分はありましたか?

大前 それはありましたね。他の人の実況を聞いていても「自分やったらこうしゃべるやろな」と思っていましたし、球団職員として選手と近い距離にいれたことで話せることも増えた。

オリックスが筆頭株主としてスポーツチャンネル(スポーツ・アイ)を立ち上げた中で、「経験のあるお前がやれ」と言われてことがキッカケでしたけど、そこから今までいろいろな試合を実況させてもらって、今はフリーアナウンサーとして自分の好きなことをやらしてもらっています。

<後編へ続く>
野球の面白さと選手の魅力を“しゃべり”で伝える!アナウンサー・大前一樹氏が歩んだ道と実況する上で大切なこと<後編>【Baseball Job File vol.24】

■プロフィール
大前一樹(おおまえ・かずき)
1961年6月13日生まれ。兵庫県出身。
関西学院大学卒業後、1984年に和歌山放送にアナウンサーとして入社。1990年にオリックス野球クラブに入社。その後、アナウンサーに復帰して実況を担当。オリックス戦を中心としたプロ野球を始め、ラグビーやサッカー、バスケットボール、MLB中継も担当。球団広報業務として記者会見やイベントの司会なども数多く務める。有限会社オールコレクト代表取締役、関西メディアアカデミー代表。

取材/写真:三和直樹