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プロ野球

内田雅也が行く 猛虎の地(7)引導渡す藤村の“大仏への場外弾”阪神残留「ミスター」襲名へ

 【(7)春日野球場】

1961年6月19日撮影の航空写真=国土地理院=。中央に野球場を含めた春日野運動場が見える。左上は東大寺。右は若草山。

 春日野球場は奈良公園の春日野運動場内にあった。運動場の開場は古く、1910(明治43)年11月21日、平安遷都1200年を記念して造られた。南北に長い長方形で約2万6800平方メートルもあった。400メートルトラックを備えた陸上競技場で、後にテニスコート、プールも併設された。

 球場は3年後の13(大正2)年9月、運動場南側にできた。両翼90メートル、中堅119メートル。フェンスはなく、左翼から中堅への松並木があった。

 東大寺に隣接しており、中堅方向後方に大仏殿屋根の鴟尾(しび=とびのお)が金色に光って見えた。明治、大正時代、奈良の中等学校の選手たちは鴟尾を狙って打撃練習を行った、と伝わる。時折、シカがグラウンドに紛れ込み、練習や試合が中断されたそうだ。

 この春日野球場でプロ野球公式戦が初めて開催されたのが1リーグ時代の戦後49(昭和24)年11月7日、阪神―東急11回戦だった。

 このシーズンは阪神の藤村富美男と別当薫が激しい本塁打王争いを繰り広げていた。

 この試合の6回裏、4番打者・藤村は黒尾重明から左越えに41号本塁打を放った。場外の松林に消えていく特大弾だった。38本の3番・別当と3本差をつけた。

 藤村は後に「春日野のとき、別当君“ガクン”ときよったですね」と語っている。75年発行の『戦後プロ野球発掘』(恒文社)でセ・リーグ会長・鈴木龍二、野球記者・大和球士らとの対談だった。大和が「相手に闘志がなくなったの、見てわかったの?」と問うと藤村は「それはやはりバッターボックスの構えでもわかります」と答えた。本塁打王への手応えを感じた一撃だった。

 現に別当は前日6日の38号で止まったまま、残り11試合、本塁打が出なかった。藤村は翌8日に大津で2本塁打するなど最終46本で自身初の本塁打王に輝いている。

 藤村は前年の13本から飛躍的に本数を伸ばしたわけだ。評論家・大井廣介が器用に右打ちするなど巧打が光った藤村が長距離打者になったのは48年の別当入団による競争意識が大きいと『タイガース史』(ベースボール・マガジン社)に書いている。当時はよく余興で本塁打競争が行われた。<阪神には別当以外にこれといったホームランバッターがいないので、いきおい、人気者の藤村が引っ張り出される。(中略)よし、おれだってと負けん気を出してやっているうちに、引っ張るコツを会得した>。

 49年オフには2リーグ分立(実際は分裂)となった。シーズン中から新加盟の毎日は選手引き抜きに動き、オフには阪神の監督兼投手・若林忠志、土井垣武、本堂保次、そして別当ら主力が移籍していった。

 藤村はチーム6位ながら最高殊勲選手(MVP)に選ばれた。本命は優勝した巨人の千葉茂だった。大井は先の書で<毎日系の票が集団的に藤村に投じられ、藤村が選ばれ、千葉は僕が分裂一番の被害者だと私にこぼしていた>。

 藤村は残留し「出て行った者が勝つか、残った者が勝つか」と名セリフが残る。ファンの心をつかみ、この頃から「ミスター・タイガース」と呼ばれるようになった。

 振り返れば、歴史の転換点となる一撃が舞った春日野球場は88年、「なら・シルクロード博」の会場となって取り壊された。今は一面芝生が敷かれた春日野園地となり、シカが観光客と遊んでいる。 =敬称略= (編集委員)