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向上心と反骨心が生んだ日米通算2000本安打 青木宣親(ヒューストン・アストロズ)

日米通算2000本安打を達成した青木宣親【写真提供=共同通信社】

「達成した瞬間、(プロ入り初の)1本目をすごく思い出した。その時よりも今の方が野球に対する情熱がある」
史上7人目の日米通算2000本安打を達成した後の記者会見の言葉に、青木が持つ‘飽くなき向上心’が凝縮されていた。
 
 決してエリート街道を歩んできたわけではない。宮崎県の日向高校時代は、投手として3年生の春季大会で優勝するも、甲子園を目指す夏の大会は県ベスト8で敗退。早稲田大学へは勉学に励み指定校推薦で進学した。大学進学後は、外野手に転向するも大きな壁にぶち当たった。全国からトップレベルの選手が集まる早稲田大学では試合に出ることすらままならない。甲子園に出場しスポーツ推薦で入学した同級生の鳥谷敬(現阪神タイガース)や比嘉寿光(元広島東洋カープ)らが、1年生から東京六大学野球リーグで主力として活躍するなかで、自身は上級生になるまでレギュラーを張ることはなかった。

青木を指導した早稲田大学第16代監督の野村徹氏は当時を振り返り語る。「そりゃ青木にはいろいろ言いましたよ。鳥谷には、何も言わなかった。もう完成していましたから。だけど、青木にはバッティングの事、守備の事、本当にいろいろ言いました。いろいろ言っても、青木は負けん気というか向上心で這い上がっていくといいますか。甲子園組に対する負けてたまるかという反骨心もあったと思いますよ。だけど、プロで2000安打を打とうかという選手になるとまでは思っていなかった。」

その後部内で頭角を現すと、2002年の春季リーグ戦で5打数5安打5打点1四球の活躍で、1 試合6得点という六大学野球記録を達成した。それでも青木は当時の早稲田大学野球部では目立つ選手ではなかったと野村氏は言う。「とにかく逆方向に、強い打球を打てと。そうすれば、足も速いんだし出塁する可能性も増えるでしょと。それが役割だと。だけど、ちょっと目を離すと、打撃練習なんかでは引っ張っている。そうじゃないよ!という話は何度もしましたよ。」野村氏の教えを体現した青木は、3年春の春季リーグから4年秋まで、早大野球部史上初の4連覇達成に大きく貢献しプロへ歩みを進める。

プロ入りの際も、2003年秋のドラフト会議でヤクルトスワローズから4位指名と決して高い評価で入団したわけではなかった。それでも入団後、自身の打撃フォームを試行錯誤のなかで進化させることでNPB史上唯一の2度のシーズン200安打達成者(2005年、2010年)という偉業を成し遂げる。NPBで順調に結果を残し続けるなかで、青木はメジャー移籍を決断した。

日本でこれほどの実績を残しながらメジャー移籍も思いもよらない壁が立ちはだかった。2011年11月にポスティングシステムを行使してのメジャー挑戦を表明し、12月にミルウォーキー・ブルワーズが交渉権を獲得したが、すんなりと入団が決まったわけではなかった。当時のブルワーズの首脳陣が、青木をアメリカまで呼び寄せ、交渉権獲得後の「トライアウト」を実施。既にポスティングでの獲得を表明しながら実力を見極めて契約をおこなう「屈辱的な入団」となった。さらに年俸も、日本時代から大幅ダウンとなるも、青木はかねてから「夢」と語っていたメジャー挑戦に踏み切った。

それでも反骨心と衰えることのない情熱で、ブルワーズでレギュラーを獲得すると、日本での8年間で積み上げた1284安打に、メジャー6年間で717安打(※6月11日現在)を足しあげ2000本安打を達成した。記者会見で今後のことを聞かれると、「プレースタイルはもちろん変わらないですし、今まで築き上げたものがありますから。」と語った青木。飽くなき向上心の果てに築き上げてきた輝きでこれからも野球ファンを魅了していく。