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ロッテ戦力外からメジャー昇格寸前へ 左腕激白「一発勝負」にかけた思い


昨オフにロッテを戦力外となり、今季はダイヤモンドバックス傘下3Aで13試合無失点と結果を残した中後悠平投手が、Full-Countの独占インタビューに答えた。

■「正直、米国はイヤだった」中後悠平が「とんでもない大どんでん返し」寸前に

 昨オフにロッテを戦力外となり、今季はダイヤモンドバックス傘下3Aで13試合無失点と結果を残した中後悠平投手が、Full-Countの独占インタビューに答えた。

 プロ入りから4年でロッテを退団した変則左腕は、12球団合同トライアウトを受けるも、3打者に対して2四球1死球と結果を残せず、NPB球団からは声がかからなかった。一時はBCリーグ武蔵ヒートベアーズに入団が決まったが、テレビ番組で中後の投球を見たメジャースカウトの目に留まり、複数球団が興味を示す中、ダイヤモンドバックスとマイナー契約。自らの力で這い上がった。

 ルーキーリーグから3Aまで昇格し、13試合に登板して10回2/3を7安打無失点13奪三振3死球。防御率0.00でシーズンを終えた。関係者によると、ダイヤモンドバックスは結果を残した中後のメジャー昇格を球団内で真剣に検討したという。結局は、チームが69勝93敗と低迷したため、勝負をかけるシーズンではないと判断。メジャー40人枠に入っている若手選手を自由契約にしてまで、今季中に中後を昇格させる必要はないと考え、最終的には見送られた。ただ、メジャーでも戦力になると評価されていたことは確かだ。

 オフに入り、日本で自主トレを続ける中後。ダイヤモンドバックスは来季も契約する方針だが、メジャー昇格まであと1歩に迫った本人はどのように考えているのか。日本復帰の可能性はあるのか。27歳の胸中に迫った。

――まずはダイヤモンドバックス入りの経緯を改めて聞かせてください。ロッテを戦力外になってから、あのような道が開けたということについては驚きましたか?

「『まさか自分が』というのと、正直、アメリカには全然興味がなかったんです。埼玉の武蔵ヒートベアーズに行って、1年間だけやると決めていました。でも、12月の戦力外のテレビ特番で見てくれている人がいて、声がかかりました。話をもらった時には、正直、アメリカはイヤだったんですけど……。メジャーといっても、日本人の凄い選手が活躍しているチームのニュースを見るくらいでした。自分から情報を取りにいったりは全然していなかった。だから、話をもらった時にはすぐに返事をしなかったんです」

――迷ったんですね。

「迷ったというか、ほぼ行かないと(考えていた)。一番最初のDバックスの話は、マイナーキャンプの招待選手として3月から来ないかというものでした。失礼な話ですけど『そんな話だったら行きません』と返事したんです。そこまで余裕はないし、家族もいるし、マイナーの招待選手で行って、ダメで帰ってくるとなったら、せっかく武蔵に行くと決めたのに、それを蹴って、帰ってきたらまた職がなくなってしまう。そうなったら僕、何もないので。そうなりたくないので、『それなら行きません』と。『最低でもマイナー契約してくれるなら考えます』と話をしました。その時のDバックスには『それは無理』と言われました。『初めから何もない選手がいきなりマイナー契約というのは、なかなかないから』と。ましてやクビになっている選手だったので。

 そこからフィリーズとレンジャーズが見に来てくれて、レンジャーズはすぐにマイナー契約したいと。そこからDバックスが、多分、球団の上の方の人が映像を見てくれたと思うんですけど、『ぜひともマイナー契約したい』と。その時には、『育てる方針じゃなくて戦力として取りたいから』と言ってくれたんです。『もちろん、最初は(マイナーの)下の方からかもしれないけど、頑張れば上がれるし、年齢も年齢だからそんなに長いことはできないかもしれないから、一発勝負で頑張ってほしい』ということでした。『それだけDバックスは左ピッチャーが不足しているから、やってほしい』と言われて。そこでDバックスのことを初めて調べたんです」

■渡米時の苦労、過酷なマイナーは高校野球→大学野球→社会人→プロの感覚

――それまではほとんど知らなかったんですね?

「知らなかったんです。そこで調べてみたら、本当に左ピッチャーが少ないし、戦力外になっていた。40人枠に入っているピッチャーも年齢がけっこう高い。ただ、レンジャーズの方は左ピッチャーを補強して成功しているんですよね。そう考えると、どっちにチャンスがあるかというとDバックスだなと。そうしているうちに、自分がアメリカでやることを前提で考えていたんですね。

 あと、嫁さんは絶対にアメリカに行ったほうがいいと言ってくれました。失礼な話かもしれませんが、『アメリカの野球と日本の独立リーグとどっちがレベルが高いか、どっちが価値あるのか。普通に考えたらアメリカでしょ』と言ってくれたんです。もちろん、僕も野球以外にも、人生経験として得るものがあると思ったので。あとは押しですよね。Dバックスが色々と言ってくれたので、『やらせてください』と」

――契約した後もなかなかビザがおりず、不安もあったと思います。

「2月29日に契約書にサインして、ビザも2週間くらいで大丈夫だからと言われていたんで、その間も武蔵の方で練習させてもらっていて『ありがとうございました』って終わったんですけど……。そこからビザがおりなくて、4月2日にやっとビザが下りたんです。不安でしたよ。家族と離れるのもイヤでしたし、日本を離れるのイヤでした。最終的には通訳もついたんですけど、行く当初は通訳をつけるという契約もなかったので『絶対にやっていけへん』と思って」

――通訳が正式につくまでは約1か月あったそうですが、その間はトラブルの連続でしたか?

「練習とかは、流れが分かってきたので。チームメートともコミュニケーションは取りますけど、深く喋ることはできないから……。試合して、帰って、ご飯食べて、という感じだったので。ただ、ご飯を食べる時は、その後に通訳になる人が来てくれたりしていたんです。ただ、休みの日だけが大変でしたね。何もすることないし、ご飯も出れないし、買いに行けない。ホテルのカップヌードルを買って食べたりしてました。車がなかったので。通訳が車を持っていたんですけど、彼が来ないと動けないという状態でした」

――マイナーは過酷だと言われます。行く前は覚悟して行きましたか?

「そうですね。過酷ですけど、最初(ルーキーリーグ)は高校野球みたいな感じで。そこから大学野球、社会人と上がっていって、3Aまでいくと日本のプロの1軍みたいな。そんな感じです」

――「これはきつい」と言うのはなかったですか?

「個人での飛行機移動ですね。昇格する時は、個人で移動するので。一番最初にフェニックスから移動する時に、空港で3時間遅れだったんです。朝6時の便だったんですけど、その飛行機に乗らないと、乗り継ぎもあって試合前に間に合わなかったんです。7時か8時の便があったみたいですけど、どうせ行ったところで間に合わなかったので、3時間待ちの飛行機に乗って。シカゴについて、そこから乗り換えの飛行機も1時間遅れてて、散々だったんです。朝4、5時に起きて、時差も入れて、着いたのが夜の10時でした。それが一番しんどかったです」

■メジャー昇格寸前も、「経理の方からもOKが出なかったとも聞いた」

――単身赴任で海を渡りましたが、家族がアリゾナに行かれたことは?

「1回だけ1週間来ました。それだけです。3Aの時、(本拠地の)リノに。ちょうど3Aに上がる日に、ハイA(1A)の場所に来るはずだったんです。なので、すぐチケットを取り直して。ロサンゼルスまでは変わらなかったので、まずはロスまでは行って、そこから遠征先のソルトレイクまでの飛行機を取って、という感じでしたかね」

――長旅だったんですね?

「長旅ですよ。ソルトレイクから僕らはリノまで飛行機で帰ったんですけど、子供もいるので続けて飛行機に乗せるのは悪いから、僕の知り合いも来て、その人が英語も喋れるので、その人と一緒にレンタカーを借りて7時間かけて」

――家族はアメリカで投げている姿を見て喜んでいましたか?

「まぁ、嫁さんは野球知らないので。多分、抑えたとか打たれたとかは分からないですけど、頑張っている姿を見て嬉しかったんじゃないと思いますけど。僕も会えて嬉しかったですし」

――渡米後は順調にステップアップして、最後は3Aで13試合無失点という成績を残しました。メジャーに上げるかどうか、球団内で話も出たといいます。手応えもありましたか?

「あったといえばありましたけど、見下すような感じはなかったですね。『行ける』『抑えられる』みたいなのはなかったですね。常に抑えてやろうという気持ちだったので。その中で自分の抑え方が分かってきたというか。日本にいたら、1軍でも自分の力を発揮できなかったり、自分からコントロールを乱していた。やっぱり制球が課題でした。フォアボールが原因で、打たれて、自滅して、というピッチングが多かったので。それでクビになったようなものなので、やっぱりアメリカでそういうことをしないと心がけていました。じゃあ、どうしたらストライク先行のいい抑え方が出来るのかということを考えて投げていました」

――米国で制球難をどのように克服したかは、後で聞かせてください。Dバックスの成績が悪く、チーム事情もあって、今年は中後さんの昇格を見送ろうという話になりましたが、やはりメジャーに上がりたかったですか?

「もちろん、上がったらこっちのものですし、そのまま来年40人枠ならメジャーキャンプですし、勝負しやすい。自信にもなりますし、1試合でも投げておけば、その時のイメージがそれなりに分かります。やっぱり上がりたかったですけど、でも、その(チーム)状況は僕も知っていたので。若手中心というのもありますし、僕が入ることによって、1人を自由契約にしないといけない。ましてや、その後に大型補強とかで12月に色々と変わってくる。その時に誰が入って、誰が外れるか、という話になってきます。あとはお金の問題もあります。それも言われたんですね。こういうチーム状況で、経理の方からもOKが出なかったとも聞きました」

――それでも、アメリカに全く興味がないというところから始まって、最終的には結果を残した。アメリカでやることの魅力を感じましたか?

「日本ではダメな結果ばかりでしたけど、アメリカでは抑えられた。マイナーですけど、3Aまで行って抑えられたので、いいイメージはありますよね。こういう投球ができたから、来年もそういう投球が出来るというイメージは沸いてますし。今もし、ここで日本でやるとなると、まだ日本のイメージ、ダメだったイメージがまだ頭にあるので、日本(の球団)から話をもらったら、もちろん僕は日本のプロ野球で野球をやりたいというのが第一なんで……。その中で、途中でこうやってアメリカで野球をやってメジャーに上がれる一歩手前まで来たからには、メジャーに上がりたいという気持ちもありますけど……それは両方あります」

■来春はメジャーキャンプからスタートする可能性、「やることは明確なんです」

――インディアンスの村田投手は、昨年メジャーデビューして、オフには日本の球団が興味をもっているという話もありましたが、アメリカで続けることを選びました。

「村田さんとは地元も一緒で、お会いしたことはないですけど、知り合いを通じて連絡先を交換して、よく連絡を取っていました。村田さんも多分、同じじゃないでしょうか。もちろん、メジャーに一回上がったし、そこまで行くレベルに来ている。自分はメジャーで投げられると思っているでしょうし。そこで日本のプロ野球界とMLBとどっちが上かといったら、それはMLBが上ですよね。そこで投げられるチャンスがある。やっぱりどっちで投げるのがベストなのかとなると、メジャーのマウンドがいいですよね。あとは、アメリカでやったからって、日本で100%抑えられるかといったら、そういうことじゃない。それも含めたら、そう思ってるんじゃないですか。僕はそういう感じです」

――正式には、もうちょっと話が出揃ってから決めるという感じでしょうか?

「そうですね。Dバックスはシーズンが終わったんで、ここから話が来ると思いますし。日本はまだ日本シリーズがあるので。ただ、たかが1年、たかが3Aで13試合なので、それで日本から話が来るとはあまり思っていません。みんなから『日本に戻ってくるの?』とか言われますけど、実際にそんな話ももらってないですし。日本の球界に戻れるのであれば、家族もいますし、楽しくできますし、楽だし、と思いますけど、絶対にそんな話はないので。今のところは来年も契約してくれるというDバックスでやろうと思っている状態ですね」

――来年の春はメジャーキャンプに招待選手で参加する、という可能性も高いと思いますが?

「エージェントの方からは、球団から聞いた話として『メジャーキャンプから』とは言われてるんですけど、実際に球団からは聞いていないです」

――それでも、1年前から考えられないところまで来ました。

「本当に考えられないですよ。メジャーに行っていたら、本当にとんでもない大どんでん返しでした。だから行きたかったんですよ」

――メジャーまであと1歩です。

「でも、ここでメジャーに行かなかったというのは、まだまだなんですよ。と、僕は思ってるんです。プラスに考えています。また来年、勝負をかけるためなんだと思っているんです。すごくいい選手をメジャーに上げるのであれば、どんな事情があっても、フロント全員が『じゃあ中後を上げよう』となっているじゃないですか。何かが足りなかったというか、まだまだインパクトを与えられていなかったと思っているので、来年もアメリカで野球をするのであれば、また首脳陣、フロント側にガツンとアピールしたいです。

 また来年、1からスタートなんです。やることは明確なんですよ。左バッターの内角にツーシームやシュートを投げられたらベストなので、それはずっと練習してますし。リセットして、しっかり練習して。『去年、メジャーに上げるか上げないか悩んだピッチャーだな』と思ってもらえるように。『あの時、逆に上げなくてよかったな』と思われたいんです。秘密兵器みたいな感じで。『今年からこいつを使おう』と思われるようなアピールがしたいですね」(続く)

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