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その始まりからアメリカ仕込みの韓国野球【WORLD BASEBALL vol.5】



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 朝鮮半島の「野球事始」が1904(もしくは1905)年、皇城YMCAの宣教師ジレットによるものであることは半ば定説になっているが、近年この説に確固たる根拠がないことが明らかにありつつある。
新説では、これより早い1896年4月に当時漢城と呼ばれていたソウル在住のアメリカ海兵隊員がレジャーとしてプレーしたのがこの地で野球が行われた最初の事例ではないかと言われており、この2か月後には地元民も参加するようになったという。
いずれにしてもこの地に野球を伝えたのは、後に支配者となる日本人ではなく、野球の本場アメリカ人であることは確かなようである。

 しかし、この地に野球が浸透していくのは、このゲームがいまだ日本語に由来する「ヤグ」と呼ばれていることからわかるように、1910年にここを併合し植民地とした日本の支配のもとでのことであった。

明治維新以降、日本は次第に朝鮮半島への影響力を強めていくが、この過程で多くの日本人が生活の拠点を朝鮮半島に移していく。その中で、彼らは当時母国で人気の娯楽となりつつあった野球をプレーしたのだが、これが地元民の間にも浸透していった。

 植民地支配開始後、朝鮮総督府は日本のナショナルスポーツとなっていた野球を地元民の教化の道具として利用する一方で、騒擾を恐れ地元民が集まるスポーツイベントを禁止したが、日本人との試合に関してはこれを容認した。
そのため、野球は、被支配者である朝鮮人が支配者である日本人に対抗しうる数少ない場として、朝鮮人のナショナリズム構築の装置として機能していく。

 1915年に後の「甲子園」、全国中等学校優勝野球大会が始まると、1921年の第7回では大会代表校として、大日本帝国の一部だった朝鮮も出場することとなった。
この参加者の多くは半島在住の日本人であったが、中には朝鮮人もおり、野球は「内鮮融和」のツールとして機能した。

 1922年、ハンター率いるメジャーリーガーのオールスターチームが世界ツアーを行うため来日し、大学チームなどと試合をこなした後、朝鮮も訪れ、当初予定されていなかった朝鮮人チームとの試合も行った。

同年、日本最初のプロ野球球団・日本運動協会が朝鮮・満州への巡業を行うが、この際、ソン・ヒョンジュンが現地採用された。これが、朝鮮人最初のプロ野球選手である。
現行のNPBについては、1938年の都市対抗大会終了後、大阪タイガースに朴賢明が入団したのが正式な朝鮮人選手第1号である。

 朝鮮野球は社会人実業団野球においても大きな存在感を示し、全京城は1940年と42年大会を制している。

 1945年8月の太平洋戦争終了後、朝鮮半島は日本の支配を脱し、1946年には朝鮮野球協会が発足した。そして1948年8月、大韓民国が建国されるが、ここからが本当の意味での韓国野球のスタートである。

 韓国野球は、高校、実業団野球中心に発展。ここからは、東映、太平洋クラブなどで活躍し、首位打者にも輝いた白仁天など日本野球に身を投じるものも現れた。
 そのような中、プロリーグ発足の機運が盛り上がり、大統領による財閥へのはたらきかけもあり、1982年4月、サムソン、ロッテ、斗山(OB)、三美、ヘテ、MBCの各財閥がこれに応じた形で韓国野球委員会(KBO)によるプロリーグが発足した。

 草創期のKBOでは、日本のプロ野球に在籍していた新浦(元巨人、韓国名・金日融)、福士敬章(元広島など、韓国名・張明夫)、金城基泰(元南海など、韓国名・金基泰)ら在日韓国人選手がプレーし、レベルアップに貢献した。中でも福士が1983年に記録した30勝は、当時の100試合から144試合制になった今も破られることのないシーズン最多勝の「アンタッチャブルレコード」となって残っている。



文・写真=阿佐智