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沖縄でキャンプを張る意味を考えたい

 【内田雅也の広角追球】阪神キャンプの取材に来ている。毎朝、沖縄・宜野座村野球場(命名権で正式には、かりゆしホテルズボールパーク宜野座という)の周辺を歩くのを日課にしている。

沖縄戦で日本兵が収容された屋嘉捕虜収容所跡の碑

 あちこちで戦争の跡を見る。球場右翼席後方には戦没者を悼む「しずたまの碑」と「慰霊之塔」が建つ。海に出ようと歩けば、終戦50年を記念し「平和」と刻まれた碑がある。さらに行けば、戦時中の野戦病院跡と共同墓地に出会う。

 この地がいかに激戦地であったかを思い知る。

 隣の金武(きん)町屋嘉(やか)には沖縄戦で日本兵が集められた捕虜収容所があった。跡地に碑が建っている。

 裏面には沖縄出身の捕虜がつくった「屋嘉節」の歌詞が刻まれている。収容中、空き缶(カンカラ)や木材を使い、パラシュートのひもを弦にした「カンカラ三線」を作り演奏したそうだ。

 同所には日本兵約7千人が収容されていた。1935(昭和10)年、タイガース創設時のメンバーで初代主将、監督も務めた松木謙治郎もいた。45年6月から終戦後46年3月まで9カ月間を過ごした。

 松木は阪神退団後、大同製鋼大阪工場に務めていた43年に召集を受け中国戦線に従軍。44年8月、内地帰還と思って上海から船に乗り込んだが、着いた先は那覇港だった。沖縄戦の第一線部隊に炊事1等兵として加わることになった。

 74年に刊行された体験記が『阪神タイガース松木一等兵の沖縄捕虜記』(現代書館)として2012年に復刻されている。沖縄戦の体験記は生々しい。幾度も死に直面しながら、生き延びた様が描かれている。

 近くに迫撃弾を受けて倒れると体の上に乗っていた兵が胸から腹に破片を受け即死していた。重傷兵が集められた壕(ごう)では何人もの兵から足をつかまれ「頼むからオレを殺してくれ」と頼まれた。

 自身も迫撃砲の破片を足と臀部(でんぶ)に受けて重傷を負った。戦友に付き添われ、本島南部の墓で半月ほど過ごした。沖縄の亀甲墓の内部は広く、30人以上入れる広さがあった。途中、逃げてきた沖縄の6人家族と同居となった。ところが30人ほどの負傷兵が入ってきて、下士官が民間人を追い出した。4人が米軍の砲弾の犠牲となった。<いつも下士官には反感をもっていたが、このときほど下士官にたいする怒りを感じたことはなかった>。

 沖縄戦終盤、摩文仁近くの壕で、知り合いの女性教師が水をくみに出かけて被弾し重傷を負い、手りゅう弾で自爆した。

 大将・牛島満ら司令部の自決で組織的戦闘は終結。摩文仁海岸から泳いで北部への脱出を試みるも、途中の海岸で休んでいる最中に米兵に取り囲まれ、6月25日、捕虜となった。

 松木は<なんの恨みもない人間同士が殺しあうなど、いま考えてもぞっとする。二度とこんな戦争の起きないように望みたいし、不幸にも戦死した日本兵のみならず、米軍の将兵にも心から永遠のめいふくを祈りたい>と結んでいる。

 そんな激戦地の島でいま、プロ野球の多くの球団がキャンプを張る。毎年、長く滞在する。選手や関係者に沖縄を知ってもらいたいと願う。

 選手のなかには時に「命をかけて野球をしている」と言う者がいる。真剣に精魂込めてプレーしているとの意味なのだろうが、戦争体験を聞けば、「命」などという言葉を軽々に口にできないはずである。

 戦争中、プロ野球も大学野球も中等野球(今の高校野球)も中断された。平和の象徴としてある野球の選手は、悲惨な歴史も知っておきたい。

 もちろん、自身への戒めも含めて書いている。もっと沖縄を学び、知らねばならない。

 今年は2月13日から巨人がキャンプを張る沖縄セルラースタジアム那覇のある奥武山公園内には「島田叡(あきら)氏顕彰記念碑」がある。2015年に建てられた。

 島田叡は沖縄が激戦地となることが必至だった45年1月、官選で沖縄県知事となった。「オレが行かなんだら誰かが行かなならん。オレは死にとうないから誰か行って死ねとはよう言わん」と決死の覚悟で赴任した。県外への疎開や台湾からの食糧確保に尽力し、多くの県民の命を救った。「島守」(しまもり)と呼ばれる。

 3年前に訪ねた。記念碑建設の活動を行っていた元沖縄県副知事、嘉数昇明が案内してくれた。

 島田は神戸二中(現兵庫高)、三高、東大を通じ野球部員だった。三高時代の球友が「劣勢を知りつつも何とかならないかと知恵を絞り、全力を傾ける。叡さんは生涯それを実行した」と回想する文を記している。

 沖縄県高校野球新人中央大会の優勝校には「島田杯」のカップが贈られる。ある優勝校の監督から「甲子園出場と同じ、いやそれ以上の名誉だと感じている」と聞いたことがある。

 島田杯は今では中学や学童野球でも授与されるまで広がった。島田杯を通じて、沖縄の野球人は誰もが戦争や歴史を知ることになり、野球ができる幸せを思うことになる。嘉数は当時「プロ野球の方々にも知ってもらえれば、精神は広がります」と期待していた。

 キャンプはむろん、シーズン開幕に向けての鍛錬や調整の場である。懸命で真剣な日々だろう。ただし、今、自分たちがいる場所が沖縄だと自覚すれば、少しでも歴史を学べば、野球にも生きてくると信じている。=敬称略= (編集委員)

 ◆内田 雅也(うちた・まさや) 1963(昭和38)年2月、和歌山市生まれ。沖縄を初めて訪れたのは89年だったと記憶する。まだキャンプを張る球団は少なく、現地の誘致活動などを取材した。もう30年がたち、友人・知人もできたが、まだまだ沖縄は分からない。大阪紙面のコラム『内田雅也の追球』は13年目を迎えた。