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北大医学部の気象予報士…異色の140キロ左腕はなぜ独立リーグに進むのか


難関の北海道大学医学部の学生にして、これまた難関の気象予報士の資格を持つ。だが、ユニホームをまとって白球を握れば、MAX140キロのサウスポー。そんな多彩な才能にあふれる23歳が進路に選んだのは、合格していた北大大学院でも一流企業への就職でもない。独立リーグだった。

■反対の声もプロへの道選択―異色経歴の北大医学部生が明かす決断の理由とは

 難関の北海道大学の学生にして、これまた難関の気象予報士の資格を持つ。だが、ユニホームをまとって白球を握れば、MAX140キロのサウスポー。そんな多彩な才能にあふれる23歳が進路に選んだのは、合格していた北大大学院でも一流企業への就職でもない。独立リーグだった。

「『なんで?』『もったいない』という周りの意見は実際に多かったです。でも、上のレベルでプレーしたいという思いが一番。そこに至るまではいろいろとありましたけど……」

 北大医学部保健学科4年、三木田龍元。プロ野球独立リーグの四国アイランドリーグ(IL)plusのトライアウトを受験し、香川オリーブガイナーズにドラフト2位で入団した176センチ、78キロのルーキーは、そう言って笑みを浮かべた。

「いろいろと」――。さらりとした表現とは対照的に、青年の紆余曲折の始まりは出生まで遡る。

 北海道・札幌出身の三木田には、重い知的障害を持つ2歳上の兄・駿一郎さんがいた。「生まれつきの障害で、小さい頃から医療という分野に自然と関心を持っていたんです」。小樽の進学校・小樽潮陵高3年夏にエースとして同校3年ぶりの小樽支部優勝を経験。南北海道大会に出場したが、初戦敗退で敗れた。「その悔しさが大きくて、迷わず大学でも野球をやろうと思った」。そして、医療と野球の2つをともに全力投球できると考えたのが、北大医学部だった。

 部活引退後から1日10時間の猛勉強で難関に現役合格。同時に、札幌学生野球連盟に所属する野球部の門を叩いた。多忙な授業に加え、週6日の練習。とはいえ、高校時代は球速は130キロ程度で、決して実力が抜きん出ていたワケではない。それでも、自主練習を重んじる部のスタイルの中で、三木田にはインテリらしい「逆算の思考法」があった。

「大事にしていたのはプランニングです。まずは1年の目標を立てて、次に1か月、1週、1日とノートに書き出して、その目標のために今日何をしなきゃいけないか考える。自主練習が多いと手を抜くこともできてしまうけど、そうすると、なんとなくで野球をやらないようになるし、逆にこの練習が何につながるかを意識するようになる。『逆算して野球をすること』を考えていました」

 飛び抜けた才能がなければ、それを磨き抜く十分な時間があるワケでもない。ただ、与えられた環境の中で最も効率に成長することに徹した。こうして1年春から中継ぎとしてリーグ戦登板、実戦経験を重ねていった。合間には居酒屋のホールなどのアルバイトで汗を流しながら、野球面で着実に成長を続けた一方、学業面では3年秋に転機が訪れた。

■「なんとなく手に取った本」で興味芽生えた気象予報士に合格

 病院患者のリハビリについて学んでいた医学部保健学科には4年生の4月から計4か月にわたり、病院実習がある。当然、最終学年のシーズンの大半を棒に振ることになる。そこで、3年後期から1年間休学して実習を遅らせ、まず野球部生活を全うすることを決断。ちょうど、進路について考える、いい時期だと考えていた。新たな道に挑んだのも、この頃だった。

「保健学科で勉強すれば、作業療法士の資格が取れる。このまま4年間、勉強して病院に進むのか。それとも大学院に進むのか。そういう時に本屋で気象予報士の本をなんとなく手に取ってみたら、おもしろそうだなと……」

 医療の世界には生気象学という分野がある。「患者さんがリハビリする時に低気圧が近づくと、膝が痛くなったり、朝にリウマチが出たりする。それに対して気象学から考えるというもの」と本人が解説するように、将来に広がりが出ると感じた。合格率4%の超難関。練習の傍ら、空き時間を見つけては机に向かった。

 野球面も順調だった。最上級生となった春、リーグ戦6連覇中で、プロ野球OBもいる盟主・道都大に延長10回1失点完投勝利した。

「うちの大学として20連敗くらいしていて、自分が入学してからも1回も勝ったことがなかった。道都大に勝つことを一つの目標にしてきたし、すごく自信になった」

 こうして、ラストシーズンも完全燃焼。以降は気象予報士へ向け、多い日に1日12時間の猛勉強に励み、復学した後の16年1月に2度目の試験で合格してみせた。

 この合格で、進路は大学院進学に心が傾いた。ちょうど、北大には生気象学に詳しい教授がいた。「復学したら、大学院に進もう」。そう考えて、自らアポイントを取って、教授への挨拶に出向いていた。だが、再び運命のいたずらか、大きな試練が訪れた。その教授が16年7月に定年により退職。「道が断たれてしまった」。目の前が真っ暗になりかけた、そんな時だった。独立リーグ受験の話が持ち上がったのは――。

■トライアウト受験で迫られた決断…大学院進学か、四国ILか

 野球部での4年間を全うした後、あの道都大戦完投勝利がクラブチーム関係者の目に留まって2~3チームから誘いがあり、ウイン北広島でプレーしていた。11月にちょうどチームの先輩に独立リーグのを受験する先輩がいた。

「興味本位で上のレベルが見てみたいという感じで、それならと受けることにしたんです」

 これが、運命を変える決断となった。

「クラブチームに入ってからトライアウトを受けるまでの間に不思議と、すごく伸びでいたんです」

 野球部時代、134キロだった球速はトライアウトで一気に6キロ更新し、140キロを叩き出した。BCリーグにも合格したが、高く評価してくれた四国IL入りを決断。万が一に備えて受験した大学院にも合格していた11月、同リーグのドラフト会議で香川からドラフト2位で指名を受けた。大学院か、四国ILか――。迷いは、なかった。

「トライアウトで自分でも想像しないようなボールが投げられた。チームの方に『お前ならNPBに行ける』とも言われて明確になり、本気で野球をやってみたいと思った」

 小学生時代、白球を追う周囲の少年と同じように抱いていたプロ野球選手への夢。小6にリトルリーグの全国大会に出場した時、茂木栄五郎(現楽天)、横尾俊建(現日本ハム)擁する武蔵府中リトルに1-43の大会新記録で大敗した。「世の中には上には上のレベルがたくさんいる」と思い知らされ、オトナになるにつれ、冷めていた情熱。それが再び、ふつふつと湧き上がってきた。

 1月25日。三木田は、北海道から四国へと渡った。

■「大学院や就職は年を取ってからでもできる」…目標は1年でNPB入り

「両親は背中を押してくれました。NPBを目指さなければ、自分がここにいる意味はない。独立リーグでも23歳は年齢的に真ん中より上。やるからには1年でNPBに行きたい」

 現在も「逆算の思考法」を生かし、「NPBに本指名」という目標から、やるべきことを4つに分け、そこからさらに4つずつ細分化し、ノートに記している。例えば、球速を145キロに伸ばすこと、カウント3-2から使える変化球を増やすこと、様々だ。

 目指しているNPBのドラフト戦線では、同じく国立大の東大・宮台康平投手(4年)が注目を集めている。東大と北大出身選手が同時に指名されれば、大きな話題となるだろう。だが、三木田は冷静に状況をとらえる。

「信濃でプレーされている東大出身の井坂さんも『学歴が注目されない社会がいい』と言っていると聞いたことがあるけど、自分もそう思う。学歴のことを言ってもらえるのはうれしいけど、マウンドに立ったら同じこと。宮台君をはじめ、進学校でもいい選手が出てくる。そういうことに関係なく、1対1で勝負できるから野球はおもしろい」

 2月1日から本格的にチームは始動。脳卒中患者のリハビリに関する卒論提出に続き、2月末には国家資格の作業療法士の資格試験が控える。「また勉強もしなきゃいけない」と苦笑いを浮かべたが、心の真ん中には野球がある。

 約束された未来ではなく、月給10数万円で働く未知の場所。最後にもう一度、なぜ独立リーグを選んだのか、聞いてみた。一点の曇りもない表情で、答えは返ってきた。

「確かに批判的な意見は、すごく多かった。でも、大学院や就職は年を取ってからでもできると思うんです。野球は今一番楽しんでいるし、体がピークの状態でしか挑戦できない。今、できることを100%やってみたいんです」

 北海道大学(当時札幌農学校)初代教頭のクラーク博士は「少年よ、大志を抱け」と言った。三木田が抱いた「NPB入り」という大志は決して、簡単なものではないだろう。それでも、この男なら実現させてしまいそうな気もする。今を100%でやり抜き、目標を一つ一つ叶えてきた。これまでの人生が、そうであったように。

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