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「パ・セ」復活の時代――37年前の檄文を思い返して

 【内田雅也の広角追球】元週刊文春編集長、医療ジャーナリストでもあった宮田親平さんが亡くなってから10日以上がたった。今月18日、肺炎のため死去。87歳だった。

「パ・セ両リーグ」という表記がある『ベースボールマガジン別冊』1960年10月号

 何よりも、あの檄文(げきぶん)が忘れられない。高校3年、共通1次試験を終えた2日後、粉雪の舞う寒い午後だった。1981(昭和56)年1月20日発行の雑誌『ナンバー』(文藝春秋)に載った『七たび生れ変っても 我、パ・リーグを愛す』である。

 試験の自己採点に落ち込みながら、書店に立ち寄った。表紙に近鉄監督だった西本幸雄さんの写真があり、手に取った。西本さんは桐蔭高(旧制和歌山中)野球部の大先輩である。教師にも信者はいて、化学の中年男性教諭は藤井寺か日生で近鉄のデーゲームがある土曜日は必ず休講にして応援に出かけていた。

 「この人を見よ! 西本幸雄」の大特集だった。インタビューで、日本シリーズに8度も敗れながら、なお9度目に挑むという不屈、反骨の姿勢に感じ入った。入試本番に向けて前を向けた。

 ページをめくると、例の檄文があった。パ・リーグへの愛をつづる文章は心に染み入った。とりわけ「セ・パ両リーグ」の呼称を「パ・セ両リーグ」と改めるという主張が心に残った。

 <言語学的に「パ・セ」だけが成立し、「セ・パ」はありえないのである。破裂音Pが二音目以下にくるためには「つまる」こと即ち促音が必要だ。「ラッパ」「カッパ」である。「セッパつまる」とは言いえて妙である。「セ・パ」は「セッパ」としか表記しえない。この解決法は、破裂音を前に置いて「パ・セ」という以外にない。「パセリ」はあるが「セパリ」はないのである>。

 その通り、と合点した。当時、自室書棚にあった『広辞苑』(第二版=1976年発行)を開くと「セパ――」で始まる言葉は「セパレーツ」「セパレートコース」の2語のみ。「セッパ」とつまれば「切羽」「折破」「説破」「切迫」「雪白」「節迫」「折半」「接伴」と8語あった。「パセ――」は「パセリ」1語だったが<キミは一度「パ・セ」と発音してごらん。その自然さゆえに、もう二度と「セ・パ」と口にすることはないであろう>の問いかけに笑い、納得したものだ。

 時代は下って、スポニチ入社3年目、1987(昭和62)年11月15日、大阪・十三の中華料理店であった「純パの会」関西懇親会の取材に出向いた。当時、近鉄担当だった。純パの会は宮田さんの文章に共感した人々が集まり、82年4月に旗揚げされていた。

 ゲストで訪れていた堀新助パ・リーグ会長が「竹内(寿平)コミッショナーに“セ・パ一辺倒はやめてくれ。この順序は隔年にすべき”と申し入れた」と明かし、場は盛り上がった。

 だが、変化はなかった。呼称問題はいっこうに改まらない。どころか、交流戦が始まった2005年、NPBが定めた正式名称は「セ・パ交流戦」だった。もうダメか……と思っていた。

 ところが、である。数年前、ある読者の方から寄贈を受けた大量の古い野球雑誌の中に「パ・セ」の表記を見つけた。1960(昭和35)年10月1日発行の月刊誌『ベースボール・マガジン』10月号である。表紙の絵は巨人・長嶋茂雄だが、特集を示す文言は<パ・セ両リーグ四十四選手の連続写真によるスタープレーヤーの妙技>とある。堂々と「パ・セ」とあるのに驚いた。

 ちなみに、この雑誌発行直後に始まった日本シリーズではセ・リーグの大洋(現DeNA)が大毎(現ロッテ)を4勝無敗で下した。敗れた大毎監督は西本さんだった。

 他にも自社のデータベースを見返すと、スポニチ本紙にも「パ・セ」が散見される。たとえば、1955(昭和30)年10月26日付の本紙(東京本社発行版)はヤンキース来日の日米野球第4戦(仙台)の模様を1面で伝えている。対戦した日本側は見出しにもスコアにも記事にも「パ・セ選抜軍」とあった。ただし、同日付の大阪本社発行版は「セ・パ選抜軍」とあり、表記が一定していない。

 どうも「パ・セ」の呼称は昭和30年代は一部で使われていたようである。やはり1965(昭和40)年から73年までの巨人V9(9年連続日本一)で「セ・パ」主流に傾いていったのではないだろうか。

 今や両リーグの観客動員数はさほど変わらない。そして交流戦や日本シリーズでは毎年のようにパ・リーグが圧倒している。あの昭和30年代から半世紀を経て「パ・セ」の時代はとうに訪れている。再び「パ・セ」と呼称、表記することはないだろうか。

 宮田さんは、あの文の末尾に書いていた。<いつの日か、ぼくが人生から引退する時が訪れたなら、ぼくは必ずや高らかに叫ぶであろう。「パ・リーグは永久に不滅です」と>。その声が聞こえた気がした。

     (編集委員)

 

 ◆内田 雅也(うちた・まさや) 小学生時代、沿線に住み、母親が本社医務室に勤務していたこともあり南海ファン。西本幸雄さんが監督となり高校時代は近鉄を応援していた。大学時代、キャンパスの立て看板に「慶早戦」とあり、応援団(応援指導部)員が「ケイソウセン」と叫んでいた。1963(昭和38)年2月、和歌山市生まれ。