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高校野球

シリーズ・黄金時代② 帝京 激しすぎたチーム内での戦い【3】

ダメならバッサリ切られると
チーム全員が共有して戦う

 誤解のないよう書いておくが、この猛練習はイレギュラーであって、確かに選手たちが「勝負」と表現する前田監督の指導は厳しかったものの、よく知られたウェイトトレーニングの重視など、帝京の通常の練習自体は理にかなったもので環境も充実していた。
「いつもは授業が終わって後に全体練習が夜の7時半から8時くらいまで。その後、月水金がウェイト、火木土が水泳トレをして終了」(田村)

「専任のトレーナーさんもしっかりつけてくれました」(本家)

「大学で他の高校の話を聞いても、グラウンドは狭かったけどトレーニング環境はウチより恵まれているところはないな、と感じました」(西村)

 もちろん、ベースには全国を制した前田監督に対する畏敬の念もあった。
「ノックはプロ級。〝ここで!?〟みたいなタイミングで仕掛ける戦術も不思議と当たったり」(田村)

 熾烈な「監督との勝負」になんとかついていけるのも、こうした背景があったからこそ。ただ、帝京のチーム内の戦いは、それだけではなかった。
「監督は『ただ、仲良しこよしのチームではダメなんだ』とよく言っていて。チーム内の競争、ポジション争いがとにかくすごかった」(西村)

「僕ら、試合相手に対するヤジは言わないんですよ。ただ、チームメイトへのヤジがすごい」(田村)

「いびり倒す感じだったよね。練習試合とかすごいプレッシャーだった」(本家)

「タイムリーエラーなんかした日にはベンチに戻りたくない」(田村)

「監督に怒られるのは仕方がないって思えたけど、チームメイトから『お前なんかやめちまえ』と言われるのは辛かった」(西村)

「みんな自分が試合に出たいから言うって事情もあったし」(田村)

「ある遠征では、そうした僕らの味方へのプレッシャーがすごすぎて、相手の父母会が引いていたときもあった。〝高校生にそんなやり方はおかしい!〟ってヤジられて」(西村)

 当時、帝京のノックには「どいとけ」と言われるヤジがあった。不甲斐ないプレーをした選手に対して「ノックから外れろ」という意味で飛ばされるヤジである。
「その意味ではシビアでした。みんなで盛り上がって勝とう、みたいなチーム意識じゃなくて、ダメだと思われたらバッサリ切られることを、チームみんなが共有して戦っている感じ。高校野球というよりもプロ野球みたいな意識に近いかもしれない」(田村)

 ただ、切られる恐怖だけではなく、希望もあった。

「僕、一般入試組なんですよ。体も小さいし、最初はずっとレギュラーの練習に入れなくて、ずっと裏方や基礎的な練習、トレーニングばかり。それが2年生のとき、突然『遠征についてこい』って言われて、いきなり先発メンバーに起用されたんです」(田村)

「田村は足も速かったし、水泳も速かったから」(本家)

「そういうところ、監督はしっかり見ているんです、きっと。僕が〝タッシー〟から戻されたのも、ひたすらティー打撃ばっかりやっていたのを見ていたんだと思う」(西村)

 余談だが、過去、帝京にはマネジャーからレギュラーをつかんだ選手もいるという。ダメなら切られるが、やるべきことをやって力を伸ばしている選手、もう一度這い上がってきた選手ならチャンスを与えられる。それは前田監督のチーム内競争を促す手腕なのだろう。

「『熱闘甲子園』を観ていると、あんな美しい話なかったな、と思います。いいか悪いかは別にして」(本家)

5番打者として優勝に貢献した本家。「白木、本家、白木、本家」の投手リレーが懐かしい。「あの継投は特に気になることはなかったです。ヒジを痛めていたこともあったし、それより、まず試合に出ることが大事だったから」

再び聖地に踏み入れるとき
帝京はどのような野球を見せるか

 帝京が黄金時代を築けた理由のひとつは、こうした過酷なまでのチーム内競争、監督との戦いにあったのだろう。それは、よく言われるような、わかりやすい高校野球の美しさとは違ったものだったのかもしれない。
 だが、田村が言う「ダメなら切られるということを、チームみんなが共有して戦っていた」という状態は、それもまたひとつの「チーム一丸」ではないだろうか。そんな帝京野球部の日々を戦い抜いた3人からは、どことなく部外者には入り込めない、彼らだけが共有する矜持を感じる。「言わせたい人間には言わせておけ」という強さも。
「今でも『負けたくない』という意識は消えていないです。生活でも仕事でも、役に立っているといったらおかしいけど、根づいているというか。それだけ高校時代は自分にとって成長できた濃い3年間だったと思います」(田村)
 そもそもチーム内競争は、現在も強いチームには欠かせない意識、環境である。Bチームの試合が各校で盛んに行われたり、大会ごと新戦力が台頭したり、複数の投手、2ケタ背番号の選手が当たり前のように甲子園で躍動する最近の強豪校を見ていると、選手も起用する指導者も、むしろ現在の方が「競争する・させる」意識は強いのではないかと思えるほどだ。
 そう考えると、レギュラーでも気を抜くと瞬く間にポジションどころかベンチ入りさえも危うくなる黄金時代の帝京は「あのやり方は、今の時代は無理」と3人も言うように、今とはやり方が違うだけで、時代を先取りしていた面もあったのではないか——。
 有名な話だが、前田監督は、この1995年夏の優勝を機に、勝利至上主義的側面を批判されたこともあって、指導方法を変えていった。自主性というキーワードを大胆に取り入れた時期もあった。新たな指針を求めてMLBを観戦、「観客に感動を与えられるようなチームで勝たなければ」と痛感したとも話している。ただし、以降、帝京が甲子園を制したことはない。それでも前田監督は、今も2000年代生まれの選手たちと向かい合い、試行錯誤をしながら甲子園優勝を目指している。
 次に帝京が聖地を踏むとき、帝京はどんなチームになっているのだろうか。それはそれで楽しみである。

取材・文/田澤健一郎

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