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高校野球

東海大菅生・佐藤弘教。中学野球のエリートが苦悩の先に掴んだもの【高校野球コラム】

センバツに出場した日大三と早稲田実の両校を倒して、第99回全国高校野球選手権西東京大会を制した東海大菅生。同校の正左翼手・佐藤弘教外野手は中学時代に全国2冠の栄光を経験したが、苦悩の時を経て憧れ続けた甲子園出場を決めた。

★華々しい中学時代

近所の自転車屋に売られていたグラブを買ったことがきっかけで野球を始めた佐藤は、中学入学前に「強いチームでやりたい」と車で1時間近くかかる佐倉リトルシニアに入団。

意識の高い仲間たちと切磋琢磨し、チーム練習のない平日でも素振りやバドミントンの羽根を使ったティー打撃、ランニング。父・求紀さんが早く帰ってくる時にはバッティングセンターに行くなど自主練習を多く積んで、強豪のレギュラーを掴んだ。

そして、3年夏にリトルシニア日本選手権とジャイアンツカップを連続で制し、全国2冠を達成。3番を任され、走攻守三拍子揃った能力を遺憾なく発揮し、要所で活躍を遂げた。「負ける気がしませんでした」と振り返るように、怖いもの知らずで、自信満々に躍動した。

当然、高校でも華々しい活躍が期待され、同僚の牛山千尋とともに東海大菅生へ入学した。

中学時代の佐藤。当時からシュアな打撃が際立っていた


★期待が重圧に

だが3年春まではチームにまったく貢献できなかった。初めての寮生活や、練習の厳しさ、時には人間関係で悩むなど様々な困難があった。「辞めたくなったことは何度もあります」とも正直に明かす。

特に辛かったのが、「全国2冠の3番打者」という周囲からの重圧だ。「入部当初から、周りに“凄いんだろ?”と言われ、“なんで上手くいかないんだろう”と、どんどん苦しくなってしまいました」

当然、期待と紙一重のものだが、佐藤にはそれが重くのしかかり、プレーに精彩を欠いていった。そんな状況でも若林弘泰監督は練習試合で佐藤を起用し続けた。「そのおかげで今があります」と話すが、一方で打てなくても使ってもらうことに対し「周りの目が気になってしまいました」とも語る。

親元を離れた息子を見ていた求紀さんも「中学までは余計なことを何も考えずにプレーしていたのですが、全国2冠の後は少し真面目になりすぎているように感じました」と苦悩を感じ取っていた。

なんとか野球に向き合い続けてこられたのは、佐倉リトルシニア時代の仲間の活躍も大きかった。木更津総合に進んだ峯村貴希内野手が昨年春夏連続で甲子園8強入り。今春には当時のエース右腕だった金久保優斗をはじめ、鯨井祥敬、藤本誠啓、塚本翼が東海大市原望洋のレギュラーとして甲子園に出場し、初戦敗退ながら延長14回の熱戦を繰り広げた。特に鯨井は中学時代に控えの選手で三塁ベースコーチを務めていただけに刺激は大きかったという。

西東京大会決勝の応援に訪れた佐倉リトルシニアの同期。写真左から鯨井、金久保、東海大浦安・中上誉貴


★苦悩の先に見えたもの

春季大会終了後には、レギュラーはおろかAチームのメンバーからも外されてしまったが、そこで「このままでは終われない」と思うと同時に邪念を振り切った。

「“1つのミスで落とされようと関係ない。自分のために野球しよう”と思えるようになりました。佐倉シニアの看板とか、中学日本一になったとか考えずに思い切りやろう」と、中学時代と同じような無欲な気持ちで、この3年間の苦労や経験をぶつけ、Aチームに復帰しレギュラーを再び掴んだ。

また大会直前には、メンバー外となった3年生による必死のサポートに「仲間のためにも」とさらに奮起し、大会に臨んだ。

迎えた西東京大会では「逆方向への打撃を意識しながら変化球にも対応できました」と準決勝まで毎試合安打を放ちチームに貢献。若林監督は「自己表現が下手な子でしたが、地道に努力できる。それが最後に意地とともに形になって這い上がってくれました」と成長に目を細めた。

佐藤は「甲子園に出られて素直に嬉しいです。今は野球を楽しめています」と笑顔を弾けさせ、「いろんな経験をできたからだと思います」とこれまでの苦悩を振り返りつつ、しみじみと語った。

中学時代の栄光に苦しんだ時間は長かったが、ようやくその重圧から解き放された佐藤。今は野球を心から楽しみ、新たな栄光を掴むため、ひたむきに前へ進み続ける。

★佐倉リトルシニア・松井進監督

「地道にやってきたことは必ず結果に繋がるからと、常々選手たちには言ってきたので、それを佐藤と牛山は示してくれて嬉しいです」

佐藤弘教(さとう・ひろのり)・・・1999年8月28日生まれ。千葉県船橋市出身。佐倉リトルシニア→東海大菅生高3年。178cm76kg。右投右打。

文・写真=高木遊