- -
2020.01.09 12:00
全てはタイミングと踏み出す勇気 いち野球ファンが外国人選手のマネージャーになるまで【Global Baseball Biz vol.39】
-Global Baseball Bizの記事一覧はこちら-
今回は、アレックス・ラミレス(現・横浜DeNAベイスターズ監督)の個人マネージャー兼、IWA ACADEMYゼネラル・マネージャーの亀田恭之(かめだ・やすゆき)さんにお話を伺った。
元々はいち野球ファンだったという亀田さんは、どうやって外国人プロ野球選手のマネージャーになったのか? スポーツビジネスを志す人へのメッセージもお伝えしたい。
■路上でのファンサービスから生まれたきっかけ
明治神宮野球場の近くに住んでいた亀田さんは、小さい頃からよく球場に通っていたそうだ。2001年シーズン終盤、球場近くを歩いていたところ、室内練習場から球場へ向かうラミレス氏に遭遇する。
「ファンとしてサインが欲しいという気持ちと、当時英語の勉強をしていたので英語で話しかけてみたくて、英語で『サインください!』と話しかけてみました。ラミレスはとても気さくに応えてくれました。『君はどうして英語が話せるの?』と聞かれたりして、軽いやりとりもしました。家に帰ってからもしばらくは余韻に浸るくらい、感激した出来事でした」
亀田さんは次にラミレス氏に会ったとき、前回サインを貰ったお礼を伝えるとともに、一つ”お願い”をしてみたという。自身も草野球をやっていたこともあり、プロ選手が使用しているバッティンググローブを譲ってもらえないかと伝えてみたのだ。
「厚かましいかなと思ったんですけど(苦笑)快く譲ってくれたんです。それからも野球を観に行くときや神宮球場の近くでラミレスを見かけたときは声を掛けたりして、ちょっとした顔見知りみたいな感じになっていきました」
■スワローズナインの間で流行った”幸運のステッカー”
いつも気さくに接してくれることへの感謝の気持ちとして、自分なりに何かお返しをしたいと考えた亀田さんは、オリジナルステッカーを制作してラミレス氏にプレゼントすることに。
ラミレス氏はこのステッカーをとても気に入ったようで、当時使用していたヘルメットに貼って試合に出場したほど。そして亀田さんに『あれ良かったからまた作ってもらえるかな?』と、”増産のお願い”をしてきたという。
「ラミレスはステッカーをチームメイトにも配ったようで、スワローズの選手たちがヘルメットに貼っていたんです。ちょうどそのタイミングでチームの打線が好調の波に乗り、新聞にも『ラッキーアイテムはあのステッカーか?』なんて取り上げられたこともありました」
更にはタフィー・ローズ(大阪近鉄バファローズ)など、他のチームの外国人選手にまでステッカーは波及した。その後のルール改正によりヘルメットにはスポンサー企業と背番号以外のステッカーを貼れなくなってしまったが、このことがきっかけで亀田さんはラミレス氏からランチに誘われたのだった。
「都内でランチすることになったんですが、野球選手と二人でランチなんて経験ありませんから終始緊張しっぱなしでした。そこで色々お話をさせてもらって、それ以降は徐々に仲良くなっていきました。ラミレスは試合に招待してくれたり、一緒に食事に行ったり、家族を紹介してくれたりしました。僕が球場に行く時にはちょっとした買い物を頼まれたりして、一緒に仕事をするというよりは友達に近い感じでしたね」
「ラミレス本人は球場へ行けば通訳の方もいて、プレーをするには不自由ない環境でしたが、家に残された家族は日本語も話せないし、買い物どころか宅配ピザの注文すら難しいような状況でした。日本での生活に苦労していたので、ラミレスから『自分含め家族の日本での生活をサポートしてもらえないか?』とオファーをされたんです」
選手に自ら声を掛けてサインを貰うほどプロ野球が大好き、しかも以前からスポーツビジネスには興味があったとはいえ、あまりにも特殊な話だった。
「ラミレス氏と会うだけでも緊張するのにマネージャーになれば他の選手ともやりとりすることになるので、毎日が本当に緊張の連続でした。ですが、それ以上に、子どもの頃夢見ていたプロ野球選手と話せたり関われたりすることにやりがいを感じました」
亀田さんはラミレス氏の現役引退とともにスポーツ選手のマネジメント業を行う企業に就職。岩隈久志氏が監修する会員制スポーツ施設『IWA ACADEMY』設立に携わり、施設責任者として現職に就かれた。現在もラミレス氏のほか、チームメイトだったアダム・リグスやアーロン・ガイエル、イ・スンヨプや、カルロス・ポンセ、ドミンゴ・マルティネス、レオン・リーとレロン・リーなど、多くの外国人OB選手とも親交がある。
■スポーツビジネスを志す人へ 大切なことは「機を逃すな」
ラミレス氏と出会う前の亀田さんは、スポーツビジネスやマネジメントを専門的に履修されたわけではなく、大学でバイオテクノロジーを学び、毎日のように遺伝子解析やマウスの解剖をしていたそうだ。大学在学中に初めての海外旅行で訪ねたニューヨークでカルチャーショックを受け、大学卒業後は就職するでもなく、先輩の実家が営む築地の昆布屋でバイト代を貯金してはニューヨークへ行くという生活を送っていた。
とはいえ元々英語は得意ではなかったので、29歳のときに一念発起し、ニューヨークの英語学校へ短期留学。そこは一時間3ドルという格安価格で、日本人はほとんどおらず、中南米やアフリカからの移民が多かったという。そして、たまたま一時帰国していた2001年に9.11が起きる。亀田さんはニューヨークへ戻ることが出来ず、その際に日本で出会ったのがラミレス氏だった。
「以前から漠然とスポーツビジネスをやりたいと思ってはいたものの、どうしたらいいのかわからなかったんです。どうやったらその仕事に就けるのかが今ほど明確にされていなかったし、ウェブ媒体もなくて圧倒的に情報が少なかった。でも今は学校にスポーツビジネスやマネジメントを学べる学科が設立されていたりと、学生のうちから必要な知識やスキルを学ぶことができる環境があるし、ジャンルごとに細分化もされています。ピンポイントに夢を持てる時代になりました」
「だから『野球に関する何かをやりたい』ではなく、自分は何をしたくてどうなりたいのかを見定めて、進むべき道を選んで進んでいけばいいのではないでしょうか。その先には必ずチャンスが待っているはずです。ただしタイミングは大切です。チャンスは逃して欲しくないですね」
亀田さんはラミレス氏からマネージャーのオファーが来た際、動揺はしたが一日経たずに引き受けると返答したそうだ。その決断が今へつながっている。
「現在マネジメント業やアカデミー事業で諸外国の方ともコミュニケーションをとっています。そのつながりで日本・台湾・韓国の少年野球チームの大会なども計画しています。将来的には中国やアメリカなど多くのチームにも参加してもらえたらと。今後は野球を通じて世界各国の交流もお手伝いできれば光栄だなと思っています」
もし亀田さんが大学卒業後に同級生と同じように企業に就職してサラリーマンになっていたら、こんな未来は思い描くことができなかっただろう。出会いとタイミング、そして機を逃さない行動力が亀田さんの人生を変えた。今の世の中は情報が多い分、優柔不断になりがちなところもあるが、今だ! と感じた時に思い切って踏み切ってみるのも良いのかもしれない。
文:戸嶋ルミ