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2019.06.27 14:07
「親日」国・台湾の野球の歴史~前編~【WORLD BASEBALL vol.17】
この秋に行われるプレミア12は、来年の東京オリンピックの予選も兼ねている。アジア・オセアニア地区に関しては、日本を除く最上位の国が参加権を得ることになり、同地区から韓国、台湾、オーストラリアが出場するが、どの国にとっても厳しい戦いになりそうだ。
台湾にとっては、国際社会における立ち位置(自らを「中華民国」と名乗り、中国の正統政権であることを中華人民共和国と争っている)から、国際スポーツ大会は、自らのアピールの場として非常に重要であり、「お家芸」である野球での東京オリンピック出場は悲願であろう。
そんな台湾の野球について、前編と後編の2回に分けてご紹介していく。
この島がかつて日本領であったことは、ほとんどの人が学校で学んでいるだろう。1895年(明治28)、日清戦争の講話条約である下関条約が結ばれたことにより、1945(昭和20)年の太平洋戦争敗戦まで、台湾は日本の一部となっていた。
明治30年代末には台湾各地でゲームが行われていたというから、日本領となって間もなく野球はこの島に伝えられたと考えられる。1906(明治39)年には、最初の本格的なチームが総督府国語学校附属中等部に作られた。
その3年後に最初のクラブチーム、高砂倶楽部が発足すると、野球熱が全島を覆い、大会も行われるようになった。1914(大正3)年には北部野球協会、1920(同9)年には台湾体育協会野球部が設立され、台湾野球は組織化されてゆく。
一方で、大正時代には、日本から早稲田大学をはじめとする複数の大学やセミプロの大毎野球団、アメリカからもマイナーリーガーで編成されたチームが台湾に遠征にやってくるようになった。
大正初期において、台湾在住の日本人が行う野球であったが、昭和に年号が変わると、中国系住民(台湾人)や「原住民」と現在呼ばれている先住民の間でも行われるようになった。
その象徴が、4年前、日本でも公開された映画「KANO」のモデルになった嘉義農林学校だろう。台湾のチームは1923(大正12)年から当時の全国中等学校優勝野球大会に参加していたが、最初は多くの学校が日本人中心のメンバー構成だった。
しかし「嘉農」は、松山商業を初の全国大会に導いた経験のある近藤兵太郎のもと、日本人、台湾人、原住民の3民族混成チームとして急速に力をつけ、台湾制覇を成し遂げただけでなく、1931(昭和6)年夏の甲子園で決勝まで勝ち進んだ。
このことは、いまだ台湾の野球ファンの間で語り継がれている。この嘉農出身の呉昌征は1937(昭和12)年、台湾人初のプロ野球選手として巨人入りし、1943年にはMVPに輝いている。
日本の統治下で発展を遂げてきた台湾野球だが、終戦後、新たな統治者として中国がやってくると、一時的に下火になる。しかし、中国本土に共産党政権が誕生し、それまで中国全土を統治していた国民党政権が台湾に移転してくると、国際社会での「中華民国」の存在をアピールするため、スポーツを利用する。
共産党による中華人民共和国が発足した1949年、台湾には中華民国棒球協会が発足。「棒球」と名を変えた台湾野球は、アマチュアの強豪として国際社会で名を馳せるようになった。それは1992年のバルセロナ五輪での金メダルとなって結実する。
その中で、力をつけた選手は、やがて国外のプロ野球を目指すようになり、李来発(元南海)、郭源治(元中日)、郭泰源(元西武)らが日本でプレーした。
やがて台湾でもプロ野球設立の機運が持ち上がり、1990年、現在につながる中華職業棒球聯盟がリーグ戦をスタートさせた。これによって台湾には野球ブームが押し寄せ、球団数も発足当初の4チームから1996年には7チームにまで拡大、翌年には第2のプロリーグとして、4チームからなる台湾職業棒球大聯盟が発足し、台湾は「プロ野球バブル」と言える状況を生んだ。
次回は、台湾プロ野球の現状と、台湾野球の課題や問題点について紹介する。
文・写真=阿佐智