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2019.04.21 10:23
訳すだけではなく「言葉を繋ぐ」日本人選手の海外挑戦を支えた通訳の奮闘記【Global Baseball Biz vol.3】
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日本人スポーツ選手の海外挑戦が珍しくなくなってきた昨今、通訳の存在は欠かせないものになっている。今回はメジャーリーグの複数チームで日本人選手の通訳として活躍された新川諒(しんかわ・りょう)さんにお話を伺った。
新川さんは、1986年に大阪府八尾市に生まれた。両親は転勤族で、1歳で横浜へ、2歳を過ぎた頃にアメリカへ渡る。シアトルに4年、ロサンゼルスで5年半を過ごした。ロサンゼルスの小学校を卒業したタイミングで帰国することになり、今度は兵庫県西宮市へ。帰国後は小6の2学期から西宮の小学校に通った。中学校は帰国子女の受け入れに積極的な同志社国際中学校・高等学校へ進学。そのままいけば内部進学で同志社大学にも進学できたが、アメリカの大学に留学することに決めた。
「幼い頃から度々転居を繰り返してきたんですが、行く先々でスポーツチームに入っては仲間や友人ができたので、スポーツを学べる学部に興味があったんです。でも当時関西にそのようなことを学べる学校はほとんどなくて、関東にいくつかあるような感じで。それならばアメリカの大学を受けてみようと。英語に抵抗感がなかったこともありますが」
選んだのは、オハイオ州クリーブランドに程近い街にある、ボールドウィン・ウォーレス大学のHPE(Health and Physical Education、保健体育や健康科学部に近い)スポーツマネジメント専攻だった。この学び舎での経験が新川さんの人生を大きく左右する。
「大学では一般教養のほかスポーツに関する法律、マーケティングについてや、施設の経営や運営、リスク管理などの”スポーツまつわること”を学びました。特に記憶に残っているものでは、”履歴書の書き方”――いかに充実した内容の履歴書にするために何をすべきか、あとは”人脈形成術について”なんかの実践的なものもありました。まず入学してすぐのオリエンテーションで『地元に残りたい人、平日5日勤務の仕事をしたい人は今すぐ専攻を変えなさい』と言われるところから始まりましたね(笑)」
更にこの学部では、インターンシップが必修だった。インターンシップを取らなければ就職活動どころか卒業も見込めない。だが、新川さんは学生ビザのため学外での就労ができない。そこで目を付けたのは、学内にある「スポーツインフォメーションオフィス」だった。学内スポーツチームの情報発信や地元メディアとのやりとり、大学公式サイトへの寄稿、大会運営などを行っている、いわば運動部専門の広報局といったところだ。大学生活にも慣れてきた1年時の後期に、新川さんはここでインターンシップをさせてほしいとオフィスに直訴し、メンバーとして受け入れられることになった。
イギリスに4ヶ月の交換留学をしていた大学2年の時のこと、”クリーブランド・インディアンスに小林雅英が入団する”というニュースが飛び込んできた。これは! と思った新川さんは、留学先のイギリスから即座に球団にアプローチ。間もなくして球団広報部長から折返しがあり、学内のスポーツインフォメーションオフィスでの活動や姿勢が評価され、アメリカ帰国後の大学3年時から卒業までの2年間をインディアンス学生インターンとして活動することとなった。
インターンの配属先は、メディアリレーションズ(広報)。移籍・退団やDL入りなどの選手情報の発表、Game Notes(試合前の選手情報)やMinor League Report(マイナーリーグにいる売り出し中の若手選手情報)の作成、記者会見の準備などを担当した。小林投手にはもちろん専属の通訳はいたが、その方はトレーナーを兼務されていたので、球団からのアナウンスやメディア対応などは新川さんが通訳となって対応することもあったそうだ。
また、インターン2年目には大家友和(現・横浜DeNAベイスターズ二軍投手コーチ)がインディアンスに入団した。大家氏はメジャー経験も長かったため通訳として帯同することはそこまで多くなかったが、毎年行っていた大家氏主催のチャリティーイベントの手伝いなどを行ったそうだ。
「小林さんと大家さんは、お二人とも実績ある投手であるにも関わらず、学生インターンだった自分にとても気さくに接してくれました。本当にこのお二人でよかったです」
2009年の5月に大学を卒業したのち、9月のシーズン終了までインディアンスのインターンとして活動した新川さんは、就職活動のためにウィンター・ミーティングへ向かった。野球のみならずバスケやアメフトなど様々なプロスポーツチームに履歴書と手紙を送ってはいたものの、なかなか声が掛からなかったが、そんな中「ボストン・レッドソックスが通訳を探している」という情報がインディアンスの関係者のもとに届く。この話をインディアンス広報部長が新川さんに取り次いでくれ、幸運にもウィンター・ミーティングでアポイントが取れ、面接の機会に恵まれたのだ。
「レッドソックスの方から電話が来て、”ジョンがいるから会ってほしい”と言われて指定された場所に行ったんです。そこにいたのは、当時レッドソックスの投手コーチを務めていて、後に監督になったジョン・ファレルさんでした。びっくりしましたね」
そのままその場で面談的に話をし、その後に球団職員の方とのやり取りを経て、新川さんは見事”内定”を勝ち取った。
社会人1年目の2010年は、レッドソックスで通訳として従事した。当時は岡島秀樹、田澤純一(現シカゴ・カブスマイナー)、松坂大輔(現・中日ドラゴンズ)ら日本人投手が三名所属していた。熱狂的なファンやアグレッシブなメディアの存在など、クリーブランドとは違った雰囲気に驚いたそうだ。翌2011年から2012年までの2シーズンは当時西岡剛(現・栃木ゴールデンブレーブス)が所属していたミネソタ・ツインズ、2013年から2014年の2シーズンは当時藤川球児(現・阪神タイガース)が所属していたシカゴ・カブスでいずれも通訳として従事した。
通訳は選手とほぼ一日中帯同しているため、心の機微にも敏感になる。勝つときもあればうまくいかないこともある。そんな中で特に苦心したのは、監督やコーチからの伝言を伝えるときだったそうだ。いつ・どこで・どういったニュアンスで伝えるべきか、正解のない中で見えないストライクゾーンを模索しつづけた。
また、メディア対応も一苦労だった。アメリカのメディアの記者は、選手と直接やり取りせずに広報からの情報をもとに記事を出している。記者は広報が情報を掌握していることを知っていて、口を割らせようと様々な知略を巡らせた発言をしてくるという。中でもスポーツ熱の高いボストンとシカゴの記者は、シビアかつ手ごわかったそうだ。選手と直接やり取りしない分、歯に衣着せぬストレートな質問やしつこい誘導尋問もあり、それらをどう訳し選手本人に伝えるかにも心を砕いた日々だったという。
新川さんはその後2015年に帰国し、現在はフリーランスとして活動している。2017年に開催されたワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の際には、MLBからの要請で侍ジャパンに帯同されたそうだ。「今後は過去の経験を活かし、様々なスポーツに関わりながら海外と日本の架け橋になっていきたい」と語る新川さん。国際的なスポーツイベントや大会が目白押しのこの数年は、きっと今までの苦労が糧となり実を結ぶことだろう。
文/戸嶋ルミ